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日本語の話し方学

 自身の考えを少し整理するために、もう一つ書きます。

1.話し言葉と書き言葉
1-1 話し言葉と書き言葉は虚構

 話し言葉と書き言葉という言い方は、変だと思う。
 まず、話し言葉。「話し言葉」は音声です。ですから、それは話し終えたらすぐに消えてしまう。だから、「話し言葉」なんてなくて、話しているのを、言語に関心がある人が実体化して客体化している。しかし、実体化し客体化した時点で、虚構です。
 書き言葉はどうでしょう。「書き言葉」は、インクで描かれた図形の系列です。インクの実在はありますが、そこには実在的な言葉はありません。しかし、当該の言語のユーザーは、そのインクの実在を誰でもおおむね同じように特定の客体として受け取ることができます。しかし、書き手や読み手という言語活動の主体や実際の言語活動を切り離したときに、書き言葉もやはり一つの虚構となります。
 話し言葉も書き言葉もソシュールの言うラングだと言ってもいいかもしれません。そして、ソシュールのラングも虚構です。それは、言語活動の現実から切り離されて摘出された、言葉としての生命を失った言語です。それは、辞書の中の言葉であり、文法書の中の例文や説明です。(ここに言うソシュールは、丸山が明らかにした真のソシュールではなく俗に言われているソシュールです。念のため。)

1-2 話し方の沈殿、書き方の沈殿
 日本語学習者が身につけなければならないのは、そんな話し言葉ではありません。ましてや、書き言葉でもありません。学習者が身につけなければならないのは、日本語の話し方や書き方です。
 しかし、話し方や書き方と言っても、客体化し実体化された話し方や書き方を知って覚えるということではありません。学習者が身につけなければならないのは、言語活動の運営に奉仕した記憶を留めた話し方や書き方です。そして、それは「身につける」というものではなく、むしろ言語活動に豊富に従事することで育むべきもの、豊富な言語活動従事を通して形成される沈殿のようなものです。それは、「何か」を「知って」、「覚える」というようなことではありません。

2.日本語研究から日本語の話し方研究へ 
2-1 近接的な言語活動従事

 「言語活動に豊富に従事することで育む」や「豊富な言語活動従事を通して形成される沈殿」などと言うと、「いやいや、言語活動に従事するためには言葉を知り学ばないとだめでしょう!」、「言葉を知っていてこそ言語活動に従事できる!」という反論が出てきそうです。それも一理。しかし、…。
 CEFRの行動中心のアプローチの中心的な物の見方の一つは、ユーザー/ラーナーです。言語習得途上の学習者は言語ユーザーであり同時に言語ラーナーだという見方です。また、言語の使用には、言語の学習が伴うという見方も提示しています。“Using language to learn it”という言い方もしています。それはどういうことかと言うと、大部分「わかる」言葉で運営されている言語活動に従事して、そんな言語活動従事、つまり近接的な言語活動従事を豊富に経験することで、あれこれの未習熟の言葉や表現法を育むということです。CEFRが提唱している行動中心のアプローチというのは、そういうことを提案しているのです。まあ、その議論に深入りするのはやめましょう。

2-2 日本語の話し方
 日本語の話し方って何でしょう。当面対面的な相互行為の状況で考えると、そうした対話的状況の契機で、言葉をどのように紡ぎ出すかです。
 西洋の言語の場合で言葉を紡ぎ出す基本ユニットは、文です。かれらが話すときは、文を次から次へと紡ぎ出していきます。「話すなら、文として整えよ!」という指令があるのです。そして、個々の文については、それを文法的に構成します。
 それに対し、日本語の場合で言葉を紡ぎ出す場合の基本ユニットは、文節のように思われます。また、日本語の話し方の場合は、短く簡潔にやり取りをしている場合は、多く、感嘆詞で話し始め終助詞で話し終えます。それは、対話者たちがひじょうに共感的な時空間を共有していて、その時空間で、共有していることは改めて述べることなく感情の交換を大切にした、「親密な」相互行為であり、それに基づく現下の現実の相互的構成です。
 日本語のあらゆる話し方が、こうした特質を持っていると主張するのではありませんが、基礎として習得する口頭コミュニケーションのための日本語に関しては、こうした特質をよく考慮して教育を計画し、習得支援の活動を実践しなければならないと思います。

3.日本語の話し方学と『基本文型の研究』
 そんな日本語の話し方についての学がこれまでなかったように思います。林四郎は『基本文型の研究』(ひつじ書房)でそのような学をもくろんでいたのではないかと思います。しかし、林のもくろみを引き継いでいる日本語研究者はいないようですし、林のもくろみは、中途で途絶えています。日本語教育で言う文型の出所は、林のこの本なんですけどね。今では、そんなこと、日本語教育界で知っている人はほとんどいません。重要な「財産」なのですが。
 日本語の話し方学のもくろみ、実現することができるかなあ…。
 一方で、日本語についてのどんな優れた学があったとしても、日本語習得の巨大な壁が「語彙の習得」であることに変わりはありません。ただし、語彙も即物的な実体として身につけるしかないという考え方は改めたほうがいいです。

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