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500円玉の音 [ショートショート]

平日の昼下がり、研究室は静かだった。私は机に向かい、資料を整理しながら午後の時間を過ごしていた。教授は会議で外出中で、他の学生たちもほとんどいなかった。時折、窓の外から車の音が遠く聞こえるだけで、研究室内は無音に近い。

ふと、机の片隅に置かれている500円玉が目に入った。これは、昨日見つけたものだ。誰の忘れ物なのか、気になったが、名乗り出る者は誰もいなかった。見つけたとき、迷いながらもそのまま放置した。だが、どうもこの500円玉が気になって仕方がない。なぜこんなところにあるのか、誰が置いたのか。あるいは、そもそも誰かが故意に置いたものなのかもしれない。

私は500円玉を手に取ってみた。冷たく、ずっしりとしたその感触が手のひらに伝わってくる。ふと指先で弾いてみると、硬貨が机の上で軽く跳ね、小さな音を立てた。その音は、静まり返った部屋に妙に響き渡った。なぜか、その瞬間、500円玉がただの硬貨ではなく、何か特別な意味を持つもののように感じた。

500円玉をもう一度、机の上で弾いてみる。今度は少し強めに。コロコロと転がり、机の端で止まる。私はその動きを無言で見つめていたが、その音はまるで誰かが私に語りかけてくるようだった。普段ならば、何の変哲もない硬貨。しかし、今この瞬間だけ、私の手の中で存在感を放っている。

「誰が置いたんだろう」

小さく呟いてみたが、当然、答えはない。だが、その問いかけ自体が奇妙に響く。こんな小さな硬貨一枚に、私は何を見ようとしているのだろうか。あるいは、何を探そうとしているのだろうか。

結局、500円玉をそのまま机の端に戻した。特に何をするでもなく、私は再び作業に戻ろうとする。けれども、あの硬貨の音が頭から離れない。気にする必要などないとわかっていながら、その存在がどこか私の心を揺さぶっていた。

数時間後、夕方になり他の学生たちが戻ってきた。私は再び、500円玉のことを誰かに尋ねてみようと思ったが、結局誰にも聞かなかった。誰のものでもなく、このまま消え去る運命なのかもしれない。そう思いながらも、私は再び500円玉を手に取り、無言でポケットにしまい込んだ。

500円玉の冷たさが、まだ少しだけ手のひらに残っていた。

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