演技が終わるまで [ショートショート]
観客席から床を見下ろしていると、会場の空気が静まりかえった。新体操の大会会場。演技が始まる直前、体をほぐしていた選手の一人が急に膝を押さえ、顔を歪めた。審査員の視線が一瞬、彼女に集まる。わたしは慌ててポケットに手を入れたが、冷たい金属の感触は見当たらなかった。
「持ってこなかったの?」隣の同僚が囁いた。「ティッシュだけじゃ役に立たないよ」。少しばかりの湿り気を含んだティッシュを握りしめ、わたしは小さくうなずいた。119番に連絡を入れるには、自分で携帯を持ってくるべきだった。しかし、ここは選手たちが闘う場だ。
「痛みがある場合は演技を中断して」と声がかかり、審査員たちが一度だけうなずいた。だが、選手は頷きもせず、また演技の姿勢を取った。そのまま曲が流れ、彼女は踊り出す。
きらびやかなリボンが彼女の頭上で舞い、観客が息を呑む瞬間が続く。膝が痛むのだろうか、わずかにバランスを崩した時、リボンが床に触れた。だが彼女はリズムを崩さずに立て直し、再び力強い回転を続けた。
「このまま最後まで行くつもりだね」と同僚が呟く。わたしも目を離せずにいた。観客もまた、彼女の表情を見守っている。まるで演技が終わるまでは何も起こらないと信じているかのように、静寂が続く。
そして、演技が終わり、彼女は床に座り込んだ。