
Photo by
solosai
バンジージャンプ [ショートショート]
風が肌を切るようだった。目の前には深い渓谷が広がり、足元には頼りない鉄製の足場があるだけ。私はバンジージャンプの装具を締め直し、係員に確認の目配せを送った。
「緊張してますか?」係員の若い男性が聞く。
「いいえ、大丈夫です。」そう答える自分の声が思ったよりも平静で、少し驚いた。
この撮影が始まったのは、あるアーティストの思いつきからだった。彼は人間の極限状態を描きたいと語っていた。人間離れした瞬間、つまり意識と肉体が乖離する刹那を追求するのだと。私もその企画の一部だった。モデルとしてではなく、被写体そのものとして、カメラの前に立つことを求められていた。
「では、カウントダウンを始めます。」係員の声が耳元で響く。頭の中では、地面に接触する感覚やゴムロープの反発を想像していたが、どれも現実味がなかった。
「3、2、1!」
踏み込むと同時に身体が宙に放り出される。瞬間、周囲のすべてが音を失った。風圧は激しく、身体の感覚は消え去り、ただ視界だけが異様に鮮明だった。空と地面が反転し、遠近感が歪む。撮影用のドローンが音もなく追いかけてくるのが見えた。
地面が近づいてくる速度とともに、時間感覚が異常に引き伸ばされる。やがてゴムロープの反発で身体が跳ね上がるが、その時にはもう恐怖や興奮といった感情は消えていた。
地上に戻ると、アーティストが私の顔を覗き込んできた。「どうだった?」
「空っぽでした。」と答える。彼は満足げに笑い、すぐに次の指示を出し始めた。
アーティストの意図が何だったのか、今もわからない。ただ、私の中には、あの空中で感じた一瞬の無音が焼き付いて離れない。