階段の先 [ショートショート]
階段を駆け上がる音が、静かな館内に響いていた。私はエントランスから3階の会議室へ向かっていた。会議開始まであと5分。遅刻は避けたかったが、階段の途中で息が切れ、足が止まる。
最近はエスカレーターばかり使っていたせいか、体力が落ちているのを感じる。手すりに手をついて一息つき、周囲を見回すと、壁に大きな鏡がかかっていた。自分の姿が映る。
鏡越しに目元を見ると、朝の急ぎでつけたマスカラが少し滲んでいる。指でそっと触れると、まつ毛に絡んだ小さな塊が取れた。こういう細かな部分が、自分の気持ちを無意識に反映しているようで少し嫌になる。
階段の下から、誰かの声が聞こえた。「ストレッチャーを通します、道を開けてください!」鋭い声に、足が一瞬すくむ。私は慌てて階段の端に寄り、声の方を見下ろした。
ストレッチャーを押す救急隊員たちが見えた。ストレッチャーの上には誰かが横たわっている。顔は見えなかったが、動かない体に白い布がかかっていた。緊張感が一気に高まる。
彼らが通り過ぎた後も、私は階段の手すりを握りながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。なぜか胸の奥に重さを感じた。自分がただ仕事へ向かうために急いでいたことが、急にどうでもいいことに思えた。
「生きているということは、こういう瞬間の連続なのかもしれない。」ふとそんな考えが浮かぶ。私はポケットからハンカチを取り出し、まつ毛に残ったマスカラを丁寧に拭き取ると、再び階段を上り始めた。
その日は、階段を一段一段踏みしめる感覚がいつもと違っていた。階段の先に何があるのか、それを知るためだけに歩き続ける。それが今、自分にできることだと思えたからだ。