ケチャップの跡 [ショートショート]
今朝も彼女は、デスクに座り、パソコンの前で手を合わせた。キーボードを前にして深呼吸をする。彼女の指先はしばらく空中で踊るように止まり、タイピングの合図を待っているようだった。だが、なかなか打ち始めることができない。メール一通書くにも、彼女にはあらゆる心配がつきまとうのだ。
「誤字があるかもしれない」「相手に誤解されないか」「この表現で本当に伝わるだろうか」——心配事は数えきれない。エンターキーを押すまでの間にも、彼女は心の中で何度も文章を推敲し、やっとのことで送り出す。それでも、ほんの少しでもミスがあれば彼女の心は落ち着かなくなる。
そんな朝、デスクに着いた彼女は、すぐに視界に入ったものに眉をひそめた。白いキーボードの左側に、赤いケチャップの小さなシミが残っている。昨日、食事をデスクでとった際にこぼしてしまったのだろう。その時は拭いたつもりだったが、どうやら見逃していたらしい。彼女はその跡を指先で軽く触れ、少し苛立ちとため息を漏らした。
「何で気づかなかったんだろう……」
彼女はウェットティッシュを取り出し、ゆっくりとそのシミを拭き取る。シミは少しずつ薄れていくが、完全には消えない。彼女の頭の中で、そのケチャップの跡が、あたかも自分の小さな失敗や心配事の象徴のように感じられる。気にしなくていい、と頭ではわかっているのに、どうしても引っかかってしまうのだ。
しばらくして、彼女はようやくパソコンに向かい、キーボードに指を置いた。だが、目はまた自然にシミのあった部分に戻ってしまう。「こんな小さな跡、誰も気づかないのに」と自分に言い聞かせても、彼女の心は落ち着かないままだ。
メールの送信ボタンにカーソルを合わせ、彼女は少しの間画面を見つめる。相手がこのメールを読んでどう感じるか、彼女の言葉がどう伝わるか。全てを自分でコントロールできないことに、心のどこかで安らぎを求めながらも、不安が続く。
結局、彼女は静かにエンターキーを押し、メールを送信した。
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