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バス停の天井の穴 [ショートショート]

天井の一角に、小さな穴を見つけたのはバスを待ちながら本を読んでいるときだった。隣の猫背の女が座ったベンチの上にあるそれは、周囲のペンキが欠けているせいで目立っていた。穴の奥が見えるほど深くはないが、放っておけば雨が染み込むのだろうと思った。

「いつからあるんでしょうね」私は思わず女に声をかけた。
女は振り返らずに、「さあね」とだけ返事をした。声は低く、どこか冷たい響きがあった。

ベンチに座る彼女の姿勢は、猫背というより、何かを抱え込むように小さく丸まっていた。灰色のコートが肩から滑り落ちそうになっているのに、直す素振りもない。その無関心さに、私は少しだけ興味を覚えた。

「気になりますか?」と、私は再び問いかけた。彼女は短くため息をついてから、天井をちらりと見上げた。
「どうだっていいことじゃない?」
確かに、その通りかもしれない。バス停の天井に小さな穴があろうとなかろうと、誰も困らない。それでも私は、その答えが少し寂しく感じた。

次のバスが来るまであと5分あった。私は立ち上がり、穴の下に移動してよく観察した。ペンキの剥がれ方から見て、最近できたものではなさそうだ。天井板の木目は少し黒ずみ、湿気を帯びているようだった。

「あなた、よくこんなもの気にするわね」背後から彼女がぼそりと言った。振り向くと、彼女は少しだけ背筋を伸ばしていた。視線は穴に向いている。
「何かの跡かもしれませんね」私は答えた。
「たとえば?」
「鳥か、誰かのいたずらか……」そう言いながら、私は結局わからないことだと気づいた。

バスが滑り込む音がした。私はベンチに戻り、鞄を手に取った。彼女は立ち上がると、そのまま何も言わずにバスの後方へと乗り込んだ。

バスが発車し、私は再び天井を見上げた。穴の向こうには曇り空が広がっているだけだった。

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