見出し画像

ビギナーズラック [ショートショート]

冷たい冬の朝、私は小さな公園のベンチに座っていた。手には最近始めたばかりの小さなスケッチブック。幼いころ以来、絵を描くなんてことはしていなかったけれど、突然の衝動で画材を買い揃えてしまったのだ。

「とりあえず何か描いてみよう」
鉛筆を握り、目の前にある滑り台を目標にした。小さな子供たちがはしゃいでいる姿が微笑ましい。けれど、いざ手を動かしてみると線は歪み、バランスが崩れてどうにもまとまらない。

「やっぱり才能なんてないのかな」
そんな考えが頭をよぎる。そのとき、視線を感じて顔を上げると、通りすがりの男性が私のスケッチブックを覗き込んでいた。

「素敵な絵ですね。滑り台の曲線がいい味出してますよ」
突然の言葉に驚いて何も言えなかったが、男性は気さくな笑顔で続けた。
「描き始めたばかりなんですか?でもすごいセンスがありますよ」

褒められるとは思っていなかった。恥ずかしさと嬉しさが入り混じる感情の中で、私は素直に頷いた。男性はそのまま去って行ったが、妙な安心感が残った。

その日の夜、私は再びスケッチブックを広げた。朝に描いた滑り台の絵を見つめると、不思議なことに、最初よりも魅力的に思えた。もしかしたら、本当に少しだけ絵心があるのかもしれない――そんな錯覚に近い感覚に心が弾んだ。

次の日も、またその次の日も、公園へ足を運んだ。子供たちや遊具、空の色、木々の形。描きたいものは無限に広がっていた。そして、あの男性に再び会えることを密かに期待していたが、彼の姿を見かけることはなかった。

それでも構わない。彼がくれたあの一言のおかげで、私は絵を描く楽しさを知ることができた。初心者がたまたま手に入れた運のようなものだとしても、この喜びを手放すつもりはなかった。

今日も私はスケッチブックを持って、ベンチに座る。そしてまた、何か新しいものを描いてみる。自分の手が作る線が、これからどこに向かうのかを楽しみにしながら。

いいなと思ったら応援しよう!