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行くか、行かないか [ショートショート]
朝食の席で、私は夫の正志と向かい合っていた。テーブルの上にはいつものトースト、目玉焼き、それに彼の好物のヨーグルト。だが、この日、食卓の空気は微妙に揺れていた。
「旅行、どうする?」
正志が新聞を畳みながら問いかける。来週末、友人夫婦に誘われた旅行についてだった。正直に言えば、私は行きたくなかった。仕事の疲れが溜まっていたし、気を使う場でのんびりできる気がしなかった。しかし、彼が楽しみにしていることも知っている。
「うーん、どうしようかな」
私はわざと曖昧に返す。正志は少しだけ眉をひそめた。「行きたくない?」
その言葉に、心が少し動揺する。行きたくないわけではない、と自分に言い聞かせた。けれど、本当は、彼が私の気持ちを察してくれるのを期待していた。
「まあ、無理にとは言わないけどさ、たまにはこういう機会も大事だと思うよ」
正志の口調は穏やかだった。その瞬間、私は思った。この人はいつもこうだ。自分の意見を押し付けず、私に選ばせようとする。その優しさに救われることも多いが、時々、それが面倒に感じることもある。
少しの沈黙の後、「正志は行きたいの?」と聞いてみた。彼は頷いた。「まあ、楽しそうだしね。でも、君が嫌なら無理はしないよ」
その言葉を聞きながら、私はふと疑問を抱いた。夫婦というのは、こうやって折り合いをつけるものなのだろうか。互いの希望を尊重し合うことが大事なのはわかるが、時にはどちらかが決めてしまった方が楽なのではないか。
結局、その日中に答えを出すことはできなかった。夕方、食事の支度をしながら、私は自分の心の中で取捨選択を繰り返していた。旅行に行けば正志が喜ぶ。行かなければ私は休める。どちらも間違っていない選択だ。
翌朝、正志はいつも通りテーブルに座り、私に微笑みかけた。その顔を見て、私は決めた。「旅行、行こうか」
その言葉に、正志は少し驚いた顔をしてから「本当に?」と聞いた。「うん、たまにはいいかもね」と答えながら、自分の胸の中にわずかな達成感を感じた。
夫婦円満の秘訣は、お互いを尊重することだと言われる。でも、それ以上に大事なのは、小さな取捨選択の積み重ねだと、私はその時初めて気づいた。