一秒が消えるとき [ショートショート]
電車がホームに滑り込む。私は人波に背を向けるように少しだけ後ろに下がった。朝、見慣れた景色に特に感情は湧かない。ただ、何かがいつもと違う気がして、腕時計の秒針をじっと見つめた。
7時48分23秒。秒針が進む。次の瞬間、何かがずれたような感覚があった。針が24秒に進むはずの瞬間、ほんの一瞬だけ空白が生まれたのだ。
「……あれ?」声を出してしまった。周囲の誰も気に留めていないようだったが、私の中では異変が明確だった。
時計をもう一度確認する。針は25秒を示しているが、その「24秒」があった記憶がない。気のせいかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、電車の扉が開く音に耳を傾けた。
乗り込んで空いた席を見つけ、体を沈める。バッグから取り出したスマートフォンの時計も見るが、異常はない。安心しようとするが、胸の奥には微かな違和感が居座り続けていた。
「一秒消えましたね」隣に座った男性が突然話しかけてきた。
その言葉に驚き、彼を見た。薄いメガネをかけた、黒いコートの男だった。私が言葉を探す間もなく、彼は続けた。「気づいたのはあなたが初めてじゃないですか?」
「……何を言っているんですか?」自然に出た問いだった。
「さっきの一秒、なくなったでしょう?」彼は腕時計を外して私に見せた。針が確かに秒単位で進んでいるが、ある部分だけ微妙に歪んでいる。
「どういうことなんですか?」
「誰かが一秒を持ち去ったんです。特に珍しいことではありませんけど、普通は気づかないものです」
冗談だと思おうとしたが、彼の目は真剣だった。私はしばらく黙って彼を見た。その間に電車は次の駅に到着し、乗客が入れ替わる音が響く。
「一秒がなくなるとどうなるんですか?」ようやく問いかけた。
彼は笑った。「その答えを知る必要があるのは、気づいたあなたのような人だけですよ」
次の瞬間、彼は席を立ち、扉の方へ向かった。何かを伝えたいような仕草を見せたが、そのまま振り返らず電車を降りてしまった。
残された私は再び時計を見つめる。秒針が進む音がやけに大きく響いているようだった。7時52分00秒――次の瞬間、再び一秒が消えたような感覚が訪れた。
その一秒の行方を追う術はない。ただ、私はそれが何を意味するのか、知りたいと思い始めていた。