第29回「洗練された最高のショー番組 シャボン玉ホリデー」
1961年6月から1972年10月までの全591回、日曜夜18時半から19時まで日本テレビ系列で放送された伝説の番組が「シャボン玉ホリデー」です。レギュラー出演者は、ザ・ピーナッツとハナ肇とクレイジーキャッツ。布施明さんや中尾ミエさん、伊東ゆかりさん、園まりさん、ザ・タイガース、小松政夫さん、なべおさみさんなど渡辺プロダクションのタレントをはじめ多くの人気歌手、タレントが出演しました。当初、「ピーナッツ・ホリデー」という番組名を予定していましたが、スポンサーが牛乳石鹸1社に決まったことから、「シャボン玉ホリデー」に変更。番組開始間もない1961年8月に植木等さんの「スーダラ節」が発売され大ヒット、社会現象にもなり、以後クレイジーキャッツの人気が爆発したことで番組の人気も確立されました。
番組を見始めた当時、私は小学生でしたが、シャボン玉ホリデーを毎週見るのが楽しみで、外で遊んでいても必ず18時半までにはテレビの前に座り、次々と繰り出される歌やダンス、コントを観て、夢の世界に浸っていました。
番組は牛がモーと鳴くオープニングコントの後、「シャボン玉ルルルルルルルー」というザ・ピーナッツが歌うシャボン玉ホリデーのテーマ曲(作詞前田武彦、作曲宮川泰)で始まります。番組当初、このテーマ曲にのってシャボン玉をふくらませる入江美樹さんが登場していましたが、彼女は小澤征爾さんの夫人になられた方です。
シャボン玉ホリデーの最後、ハナ肇さんがザ・ピーナッツの二人に憎まれ口を叩き、ひじ鉄をくらった後、「スターダスト」が流れると、楽しい日曜日がこれで終わるという一抹の寂しさを感じたものです。この頃、我が家はまだ白黒テレビでしたが、シャボン玉ホリデーは最初からカラー放送、ビデオ収録でした。費用が高いこともあり、毎回、スタジオ内には、「失敗できない」という、生放送のような緊張感がみなぎっていたといいます。
番組によく出演していた中尾ミエさんは、シャボン玉ホリデーについて「まず録音の日があって、振付の日があって…。で、水曜が本番だから、3日はリハーサルやってた。本番の日も入れてネ。今、30分番組でそこまで時間かけてやる仕事ってないもの。やっぱそれなりに、今観たって、きっとレベルの高い番組だったと思うョ。」と語っています。
シャボン玉ホリデーは、理想の大人向けエンターテイメントと言われ、時代の先端で活躍する人々から高い人気を得ていました。1959年に始まり1990年まで続いた日本初の海外紀行番組「兼高かおる 世界の旅」(TBS系)のリポーター兼高かおるさんも、2003年の朝日新聞のインタビューの中で、「視聴者として思い出に残る番組は?」と聞かれ、「シャボン玉ホリデー」を挙げ、「非常に楽しかったですね。洒脱であか抜けていて、演奏はもちろん、ジョークも、踊りも良かった」。忙しい中、安らげるひとときだったと述べておられます。
一方で小学生からおじいちゃん、おばあちゃんまで一家揃って幅広い層に支持された番組でもあり、大衆から広く人気のあったクレイジーキャッツの魅力に支えられていた部分も大きかったと思います。
同じ年、1961年の4月にスタートし、1966年4月まで続いた、やはり伝説のバラエティ番組が「夢であいましょう」(NHK)です。土曜日の夜基本22時からの30分番組で、出演は中嶋弘子さん、黒柳徹子さん、谷幹一さん、渥美清さん、E・H・エリックさん、坂本九さん、坂本スミ子さん、デュークエイセス、田辺靖雄さん、九重祐三子さんなど。今月の歌から、「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」「おさななじみ」「こんにちは赤ちゃん」といったヒット曲が生まれました。私も見ていましたが、放送時間が夜遅いこともあり、「シャボン玉ホリデー」に比べれば、より大人を対象にした番組内容で、コントもクスッと笑うといった感じで、数々の人気コントが繰り出され、ワハハと笑う「シャボン玉ホリデー」とは趣きの異なる、NHKらしい落ち着いた感じの番組でした。
「シャボン玉ホリデー」については、日本テレビのディレクター、プロデューサーとして、「紅白歌のベストテン」「カックラキン大放送」「全日本仮装大賞」「今夜は最高」などを手掛けた五歩一勇(ごぶいちいさむ)さんが1995年、「シャボン玉ホリデー スターダストを、もう一度」(日本テレビ放送網株式会社)を出版されました。
五歩一さんの本などを参考に、「シャボン玉ホリデー」の魅力を支えたメンバーを紹介します。
クレイジーキャッツのコントは番組の目玉でした。例えば、植木等さんが場違いなところに登場し、「お呼びでない?こりゃまた失礼いたしました」の一言で、あっけにとられていた周りの人たちがハラホロヒレハレと崩れ落ちるコント。当時多忙を極めた植木さんは、ほぼ徹夜でシャボン玉ホリデーの収録を終え、東宝の撮影所に入ると、古澤憲吾監督が「渡辺プロの奴を呼んでこい!」と助監督を怒鳴りつけているので、監督に「何ですか?」と理由を聞きに行ったら「主役のこんな疲れた顔は撮れない!今日は撮影中止!」といったこともあったそうです。
もの悲しい曲が流れる中、病床のハナ肇さんに娘役のザ・ピーナッツが「おとっつぁん、おかゆができたわよ」と話しかける貧乏家族に外からの侵入者が加わり、とんでもない展開になっていく「おかゆコント」。犬塚弘さんがよくほっかむりをしたコソ泥役で登場していました。
追い詰められて、もう逃げ道がない!というときに、一発逆転を狙ってシャイな谷啓さんが口走る「ガチョーン!」。「ガチョーン!」が普及し、見ている人に「最後はガチョーン!がくるぞ」と先を読まれるようになると、相手をはぐらかすように「ポカーン!」。ほかにも「ビローン!」とか、「ムヒョー!」とかいろいろありました。植木さんにしても谷さんにしてもミュージシャン出身のリズム感と間が新鮮かつ絶妙なコントを生み出したのだと思います。構成作家で数々のクレイジーソングの作詞を手掛けている青島幸男さんも「青島だァ!」と言いながら、タレントとして自ら番組に出演、主に谷啓さんとのコンビで丁々発止のコントを繰り広げました。アイデアマンの谷啓さんは2本、構成作家として台本も書いており、シュールなコントが散りばめられています。
華麗な歌とダンスで、華やかなショーの魅力を引き出したのがザ・ピーナッツ。当初、踊りに関してはまったくのシロウトでしたが、振付師小井戸秀宅さんによると「あのコたちは一回ゆっくりステップを教えると、すぐ覚えました。リズム感が良いんです。ですから、苦労はしませんでしたネ」と話しているが、彼女たちの努力たるや相当なもので、日本テレビのスタジオでダンスのレッスンをしてから、本番に臨みますが、「昔は、夜中から朝十時までだって平気でしたから」と語っています。
シャボン玉ホリデーの音楽面での特徴は、歌手たちのオリジナル曲ではなく、スタンダードや課題曲を唄わせていた点。アレンジャーのセンスが非常に問われる番組だった。ザ・ピーナッツの育ての親で、番組のアレンジを主に担当していたのが作曲家の宮川泰さん。時間制限いっぱい、譜面を書き続ける宮川さん、その傍らには写譜屋さんが座り、できる先から持っていったという。シャボン玉の仕事の充実度を宮川さんはこう振り返っています。「ピーナッツが喜ぶ、秋チン(番組を企画、プロデュースした秋元近史さん)が喜ぶという面もあったけれども、自分もそういうのが好きだからネ、わかりやすい音楽っていうのが。自分がこうしたいと思ったことが、全部受け入れられてたからネ。満足してたねェ、張り切ってたもん、あの頃は」。後に前田憲男さんや服部克久さんも番組に関わりました。
クレイジーキャッツの弟子の皆さんも番組で大活躍。なべおさみさんの映画監督が生真面目な助監督の安田伸さんを「ヤスダー!」と怒鳴りまくる「キントト映画」コント。キントト映画の監督は、東宝の古澤憲吾監督をイメージしています。小松政夫さんも、男っぽい奴が急に女っぽくなる設定で、「どうして、どうしてこうなるの。もう、知らない、知らない」などの人気フレーズを生み出しました。
森進一さん、布施明さん、沢田研二さんといったゲストもこのコントに参加したことがあります。
師匠の青島幸男さんの後を受けて構成作家として活躍したのが河野洋さん。数々の名作コントの台本を書きました。
例えば、1963年9月の「二百十日だピーナッツ」。ある家族が食事をしていると、台風が来て突然の停電。暗闇の中で父親がやっとの思いでロウソクに点火すると正体不明の植木さんがハッピーバースデーを歌いながらいきなりやってきて、「誕生日おめでとう!」って火を吹き消しちゃう。画面が真っ暗になり、植木さんが「こりゃまた失礼いたしました」、オチの「ドカン!」という効果音が流れ、画面にはいくつもの星が。
1964年4月の「コーラスばんざいピーナッツ」。ロシアのコサック合唱団が「エイコーラ、エイコーラ」と歌っていると、どういうわけか半纏を着た職人姿の植木さんが登場して、「お父ちゃんのためなら」と合いの手を入れると、合唱団もつられて「エンヤコーラ」。周りの様子がおかしいことに植木さんが気づいて「お呼びでない?こりゃまた失礼いたしました」。合唱団、一斉に崩れ落ちる。
秋チンこと秋山近史さんは「シャボン玉」を自ら企画し、放送開始後1年半、ほぼ一人で演出もこなしました。番組を語るうえで、この人の存在は欠かせません。演出していた当時、NHKの「夢であいましょう」の演出をしていた末盛憲彦さんと交流があり、「お互いの番組の出演者を総入れ替えして一本作る」という画期的な構想もあったようです。お父様の不死男さんは反骨の俳人、叔母の松代さんは「近松心中物語」などで有名な人気劇作家という芸術一家に生まれ育ちました。10代からハワイアンバンドでスチールギターを弾くなど音楽好きで、明治大学卒業後、日本テレビに入社、音楽バラエティの草分け「光子の窓」でテレビ演出の基礎を学び、シャボン玉は1972年に終了しますが、プロデューサーとして番組の最期まで立会いました(終了時40歳)。ほどなく日本テレビの子会社に出向、主に経営を任されましたが、49歳で自ら命を断ちました。再びシャボン玉のような番組を作るべく模索を続けていたそうですが、まさにシャボン玉に青春をかけた生涯と言えましょう。シャボン玉の残された映像はわずかで、しかも初期の秋元演出の回は残念ながら一本も残っていません。
秋元さんの後を受けシャボン玉の演出を担当したのが、齊藤太朗さん。後に「ゲバゲバ90分!」「コント55号のなんでそうなるの?」「ズームイン!朝!」などを担当。齋藤さんも音楽好き。音楽家への道を父親に反対され成蹊大学へ進んでからも、ほとんど独学でラッパを吹いたりしていましたが、大学卒業後、何とか音楽に関われる仕事ができないかと思って、高校の先輩のすぎやまこういちさんに日本テレビを紹介してもらった、ということです。
このように、音楽と笑いがわかる出演者、作家、スタッフが揃って「シャボン玉ホリデー」という番組が奇跡的に生み出されたと言えると思います。
最近のバラエティは、出演者の楽屋落ちトークや料理、ゲーム、クイズなどで構成される番組が多いですが、歌とダンス、コントが30分に凝縮された「シャボン玉ホリデー」のような番組を楽しむことのできたのはとてもハッピーな経験でした。
1986年3月、五歩一勇さんがプロデューサーに名を連ね、齋藤太朗さん演出で、木曜スペシャル「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ系)が放送されました。これは、クレイジーキャッツ結成30周年、シャボン玉ホリデー放送開始25周年を記念した特別番組で、シャボン玉の台本をベースに新作コントやレギュラー放送時の映像も交え、放送されました。出演は、ハナ肇とクレイジーキャッツ、青島幸男さん、中尾ミエさん、タモリさん、原田知世さん、チェッカーズ、大地真央さん、なべおさみさん、小松政夫さんなど。引退していたザ・ピーナッツはタイトルコールの声のみ出演。番組の最後に「オリジナル版の亡きプロデューサー秋元近史に捧げる」というテロップが流れました。
ほとんど映像が残っていない「シャボン玉ホリデー」ですが、現存する4本を収録したDVDボックス「クレージーキャッツ・メモリアル」が2007年、渡辺音楽出版から発売されています。
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