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第24回「日劇や宝塚劇場を沸かせたクレイジーキャッツ」

クレイジーキャッツは、映画、テレビ、音楽、舞台というエンターテイメント全ての分野で活躍した稀有な存在ですが、今回は舞台での魅力について紹介したいと思います。
私が初めてクレイジーの舞台を見たのは、1965年(昭和40年)前後、小学生か中学生の頃だったと思いますが、広島県立体育館でクレイジーのショーが開催されることになり、東芝の電気製品を一定額以上購入した人が観覧できるというシステムで、母親にせがみ、切符を入手した記憶があります。シャボン玉ホリデーなどのテレビや映画でよく見ていたクレイジーのメンバーの生の演奏や音楽コントを目の当たりにして、ショーの華やかさと迫力、楽しさが強烈に心に残りました。
クレイジーキャッツが東京有楽町の日劇こと「日本劇場」の舞台で初めて主役をつとめたのは、1962年(昭和37年)9月の「クレージー・キャッツまつり」です。共演は、重山規子さん、園まりさん、梓みちよさん、木の実ナナさん、仲宗根美樹さんなど、ジャズ演奏やコントなどが次々とくりだされ、コミックバンドとしてのクレイジーの魅力を前面に打ち出したバラエティ・ショーでした。
日劇でのクレイジーのショーを数多く手がけた放送作家・演出家の塚田茂さんは、著書「どんどんクジラの笑劇人生〜人気番組で綴るテレビバラエティ史」(河出書房新社)の中で、ハナ肇さんの舞台に対する次のようなコメントを紹介しています。
「僕はバラエティショーが大好きで、育ったのも日劇、宝塚劇場、コマ劇場、国際劇場だから、大きいほうが面白い。セコいところは、客となれ合いになっちゃう。それと役者自身が笑いものになるのもいやだね。芸で笑いものにならなきゃね。ステージ、特に日劇なんかは客の目が肥えているから、ちょっとやそっとでは笑わない。それを笑わすのは大変で、塚ちゃんが稽古のとき"これは面白い"といったのは、ほとんど失敗する。塚ちゃんと喧嘩して"わかったよ、全部白紙!"と怒鳴って作ったコントは一番受けた。名作というのは煮つまって、もう駄目っていうときに生まれる」

その後のクレイジーキャッツの大劇場出演の歴史は佐藤利明さん著書の「植木等ショー!クレージーTV大全」(洋泉社)、クレイジー・キャッツ クロニクルによると、次の通りです。


1963年(昭和38年)
1月日劇「初笑い無責任だよザ・ピーナッツ」
3月大阪梅田コマ初の1ヶ月公演「クレージー作戦先手必勝
9月日劇「第2回クレージーキャッツまつり無責任バンザーイ」
1964年(昭和39年)
1月日劇初笑いほんとにクレイジーだよ!ザ・ピーナッツ




3月大阪梅田コマ「クレージーの出たとこ勝負」この時は2月に植木等さんが過労で入院、休演となり、千秋楽のみ出演しましたが、観客の皆さんから万雷の拍手で迎えられたそうです。
9月日劇「第3回クレージーキャッツまつり〜イヤァまいったまいった」
1965年(昭和40年)
1月日劇「初笑いほんとにクレージーだよ!ザ・ピーナッツ」
5月大阪梅田コマ「クレージーの太閤記」
7月東京宝塚劇場クレイジーキャッツ結成10周年「クレージー太閤記」「10周年だよ!クレージーキャッツ」 2部の10周年を記念した音楽ショーでは、高橋圭三さんの軽妙な紹介にのせて、メンバーの楽器ソロ演奏が披露されましたが、この模様は、DVD「CRAZY CATS MEMORIAL」に収録されています。


1966年(昭和41年)
1月日劇「今年もクレイジーだよ!ザ・ピーナッツ」
5月大阪梅田コマ「贋作クレージー伝ドレミファ物語」
12月東京宝塚劇場クレージー大忠臣蔵」「年忘れ狂詩曲

1967年(昭和42年)
1月日劇「初笑いクレイジーだよ!ザ・ピーナッツ」
5月大阪梅田コマ「クレージーホテル」「クレージーの7人のおかしな騎士」
1968年
1月日劇初笑いクレイジーだよ!ザ・ピーナッツ」前述の塚田茂さんの本の中で、この時の日劇公演での流行歌と楽器を使ったコントがいくつか紹介されています。例えば…
○ラブユー東京
 安田伸のフルートの前奏。ロスプリモス風のクレージーのコーラス。女装した桜井センリが途中で登場、歌に合わせて踊る。コーラスが終わり、ひっこむとき「わたしって駄目な女」と泣きくずれ、ステージの壁にぶち当たって倒れる。
○恋
植木等が♪恋というものは、不思議なものなんだ…と気持ち良く歌っていると、ハナ肇が登場して、「ガキが四人もいて、ロマンチックなこというな」と洗面器で張り倒す。
○知りたくないの
谷啓、歌いながらバナナの皮🍌をむいてどんどん捨てる。♪あなたのことなど…犬塚弘が出てきて、バナナの皮にすべって尻餅をつく。それを見ながら、谷♪シリたくないのォ、尻痛くないのォ。犬塚「この野郎、なんでこんなところにバナナの皮を捨てるんだ。尻痛くて歩けねえ」。谷♪すんでしまったことは、仕方ないじゃないの。
○世界は二人のために
植木等、カンカン帽にステテコ、下駄履きスタイル。背中に三味線を背負って登場し、ズーズー弁で歌う。♪へーカイのため(世界のため).…
植木「これにてへーカイ(閉会).します。文句あっか!」
○アイーダ
勲章をいっぱいつけた九十歳の世界的ティンパニー奏者(ハナ)、よろけながら助手(なべおさみ)に手をひかれて登場、アイーダの行進曲が始まる。スティックをもった奏者の両手を、助手が棒で高くあげたままにする。奏者の手が揺れて(震えて)いる。やがてティンパニーを叩くところで助手が棒をはずすと、奏者のスティックは落下してティンパニーを叩き続ける。助手はまた両手を棒で高く上げ、こうして無事に終了する。
○軽騎兵序曲
谷啓がトランペットをソロで吹き始めるが、途中で音が止まらなくなる。そこで上衣に包み、止まったので安心して上衣をとると、また鳴る。蒲団でくるみ、そっと覗くと音が出る。こうして最後にトランペットのマウスピースを絞めると、ようやくキューと鳴って止まる。谷「ざまあみろ」
5月大阪梅田コマ「クレージーのどろぼう天国」
12月東京宝塚劇場年忘れクレージー爆笑公演「ドレミファ物語」「クレージー大音楽会」

1969年(昭和44年)
1月大阪フェスティバルホール「クレイジーキャッツショー」
5月大阪梅田コマ「幕末風雲録・クレージーが行く」
12月東京宝塚劇場年忘れクレージー爆笑公演「幕末ゲバゲバ風雲録」「大音楽会クレージーの場合は?」
1970年(昭和45年)
9月日本武道館「クレージーキャッツショー」
12月東京宝塚劇場年忘れクレージー爆笑公演「ぎんぎんぎらぎら物語」「大音楽会走れ走れクレージー」
1971年(昭和46年)
12月東京宝塚劇場年忘れクレージー爆笑公演「浪曲為五郎一座」
地方で暮らしているとクレイジーキャッツの大劇場公演を観る機会はないのですが、東京の日劇、宝塚劇場のクレイジー公演は、テレビで放送してくれていたので、毎回、楽しみにしていました。それにしても、映画、テレビ、歌の録音、地方公演などをこなしながら、これだけの長期大劇場公演を頻繁に行っていたのは驚異的で、メンバーの皆さん(当時40代)、よく身体が持ったものだと改めて感心します。
1973年(昭和48年)
9月新宿コマクレージーキャッツ秋の特別公演「クレージーの大昭和史クレージーキャッツの六人(石橋エータローさんが健康上の理由から1971年1月に退団し、料理研究家に転身)と、伯爵家の庶子に扮するヒロイン那智わたるさん(宝塚歌劇団出身)の波瀾万丈の人生航路をたて糸に、昭和史のスペクタクルな大事件をよこ糸に、昭和の歌謡史を盛り込んだ、歌と芝居で綴る昭和史。私は、この年の4月から社会人1年生として東京で暮らしていたので、同期のメンバー数人でこの公演を観に行きました。クレイジーのメンバーが「昭和」の歴史の荒波にもまれて生きる庶民の哀歓を笑いと歌を交えながら演じており、見応えのある舞台でした。

1979年(昭和54年)
5月日劇ハナ肇とクレイジーキャッツ結成25周年特別公演これで日本も安心だ!!」1970年代に入ると、クレイジーキャッツはメンバー個々の活動が中心になっていましたが、クレイジー映画のオールナイト上映に多くの若者がつめかけるなど、クレイジーキャッツとしての活動を望む声が盛り上がりる中、結成25周年記念公演を、思い出の日劇で開催しました。クレイジーの楽器演奏やシャボン玉ホリデーのコント再現、クレイジーの民謡ベストテン、谷啓とスーパーマーケット演奏、植木等ひとりショー、クレイジーヒットパレートなど盛りだくさんの内容。日替わりゲストも豪華で、連日満員盛況、私も何回か観に行きました。
クレイジーキャッツのメンバーは、これ以外にも植木さん、谷さん、ハナさんはじめ個々に大劇場の舞台に出演、舞台人としても活躍しましたが、クレイジーキャッツとしての大劇場出演は、結果的にこの日劇の舞台が最後になりました。個人的には、クレイジー最後の生の舞台をこの目に留めることができて良かったと思っています。

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