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『散文詩あるいは物語詩』暗い土蔵の隅で 〜大切な人が逝くということ〜

土蔵の二階屋の隅っこで長いこと、膝に顔をうずめて泣いていたことがございます。記憶のなかではお母さまに叱られたことなど一度だってなかったはずなのに。わたくしの頭よりもずっと高いところで空は格子窓に区切られて、真綿をいたような薄い筋雲がゆっくりと、格子をよぎってゆくのが見えます。色づいた、ナナカマドか何かの葉が一枚、格子の桟の上に乗っていたけれど、風が吹いて、飛ばされていってしまいました。


土蔵のなかは湿っぽくて、埃っぽくて真っ暗で、見えるものといったら、不思議にわたくしの手元っきり。格子窓なんて高過ぎて、日差しなんて入ってきやしません。そんな土蔵の二階の隅でわたくしは、どうして泣いていたのでしょう? お母さまの読んでくださった小法師こぼうしのお話が、そんなにも怖かったからでしょうか? 月のない、真っ暗な真夜中にお父さまが、逝ってしまわれたからでしょうか? それとも遠くの森のなかで寂しげに、鹿が鳴き交わしていたからでしょうか? 時折しゃくり上げながら頭を上げて、丸い両の膝越しに手のひらを見つめてみますと、それは白く透き通ってわたくしに、何やら誘いかけているようでございます。わたくしは一層怖くなって、両手をぎゅっと握るのと同時に、両眼をしっかり閉じ合わせました。


そうやって眼をつむってじっとしておりますと、何やら耳慣れない物音が聞こえてまいります。それはわたくしとはちょうど対角線の、真っ暗な土蔵の暗がりからのようでもあり、あるいはわたくしの背中側の、土蔵の角のその外側からのようでもあります。そしてまた音はカサカサと、散り敷かれた枯葉を誰かが踏み締めるようでもあり、ギシギシと、土蔵のはりたわんできしむようでもあります。わたくしは膝を、ますます硬く抱え込んで、いっしょうけんめい、お母さまのお顔やら、お姉さまのお顔やらを思い浮かべようといたしました。けれどどんなに頑張ってみても、お母さまもお姉さまも、浮かんできてはくださらないのです。音は、大きくなるでもなく小さくなるでもなく、しばらく止んでは鳴り、しばらく止んでは鳴り、を繰り返しています。


<あたしはお父さまのお布団のはたで正座をして、右手で右の、左手で左の膝を固く掴んでいた。隣でお母さまが、お布団から出たお父さまの手を両手で握りしめ、涙をこらえるように、じっとお父さまのお顔を見つめている。お布団から出たお父さまの腕があんまり細く白いので、あたしはお父さまが木のようになって、このまま枯れてしまうのではないかしら、そんなことを考えていた。お亡くなりになる、ということが、あたしにはまだはっきりとはわからなくて、明日の朝になったらお父さまはいつものように起き出してきて、縁側に腰を下ろしたあたしの頭をぽんぽんと叩いて、おはよう、と声をかけてくださるのじゃないかしら、ふとそんなふうにもおもったけれど、お母さまや、向かいに座って眼に涙をいっぱいに溜めているお姉さまを伺いながら、そんなことはもう二度とないんだ、ということも実はあたしにもわかっていた。円形の蛍光灯だけが、お父さまのお布団の真上で煌々と明るく灯っていたけれど、それにしては部屋の四隅は何となく薄暗く感じられて、それでなくてもお父さまの、げっそりと痩せて、眠っているはずなのに僅かに薄眼を開けているようなお顔を見るのが怖くてならなかったのに、あたしたち以外にも何かがそこにうずくまっているような気配がして、本当はそうやってじっと正座をしているのがあたしには我慢ならなかった。そうして、どれくらいそうしていたのだろう、お医者さまが控えていらっしゃる奥のお座敷で、不意に柱時計が鳴り始めた。死、ということがあたしにはまだわからなかったけれど、あたしは唐突に、たった今お父さまがどこかへ行ってしまわれたことを理解した。蛍光灯の灯りが妙に明るくて、その下でお父さまの手を握りしめた、お母さまの両手が小刻みに震えていた。お姉さまが、慌ててお医者さまを呼びに立っていった。>


本当に大切な人を失ったとき、人はどうなるのでしょうか? それは真夜中だったのです。真っ白い障子の向こうの縁側の下で、片膝を立てて秋が控えているような、そんな真夜中でございました。虫の音が絶え、星々の輝きが絶え、風が絶えておりました。不思議にお父さまだけが、ただ眠っていらっしゃるようにわたくしには見えたのです。お父さまは、どこへ行ってしまわれたのでしょう? いったい誰がお父さまを、連れていってしまったのでしょうか。それともお父さまはご自分で、望んで行かれたのでしょうか? 儀式のような何日かが過ぎて、お母さまがわたくしに、そろそろ学校に行かないと、先生はきっとご心配ですよ、とおっしゃったのをその後も、なんとなくわたくしは覚えておりました。


さすがに、膝を抱き抱えたままの姿勢でじっとしているのに疲れ果ててわたくしは、片手をついて、反対の足をそろそろと伸ばしてみたのでございました、真っ黒よりも深い暗闇に怖気おぞけを覚え、片眼だけを開けながら。伸ばした爪先に、ことり、と何かが当たります。後ろについた手で体を支え、わたくしは足の指で、必死にその何かを引き寄せました。足を縮めると、あたかもそれ自体が光を放つようにわたくしの、手元でくっきり浮かび上がります。それは葉書ほどの大きさの写真立てで、大きな平屋の民家をバックに着流しの男性が、片手で小さな女の子を抱き上げて、額の中で笑っておりました。その写真を見たとたん、泣き止んだはずのわたくしの眼にもう一度、止め処なく涙が溢れてまいりました。写真はお父さまだったのです。ブラウスにスカート姿のわたくしは、お父さまの腕に抱かれながら何だか少し不満げに、顰めっ面を見せております。そんな顔をしながらでもわたくしはお父さまのことが、そんな小さな頃から大好きだったのでございました。わたくしは涙を流しながら何もかも、すっかり思い出したのでございます。


人は大切な人を失ったとき、そしてそのことを受け入れられないでいるあいだ、その人の「死を生き続ける」のです。それがわたくしには、土蔵のなかで膝を抱えて泣いていることでございました。けれど、今でも死が何なのかよくわからないようにその人の、「死を生き続ける」ことがいったいどういうことなのか、わたくしにはわかっておりません。ただわたくしは、土蔵のなかでわたくしを抱いているお父さまの古い写真を見つけたとき、おそらくすべてを悟ったのです。随分と長い間わたくしが、お父さまの死を受け入れられないでいたことに、わたくしはやっと思い至ったのでございました。


いつの間にか、いちめんのすすきの原にわたくしは、ひとりぽつんと佇んでおりました。凍えるような風がきて薄の穂をさわさわと揺らし、わたくしを巻いて過ぎてゆきました。わたくしは両腕をしっかりと抱いて、冷たい風に吹かれるのにまかせておりました、間違いなく、お父さまはもうどこにもいらっしゃらないのだということを、胸の奥に受け止めながら。永遠のような薄の原の広がりの上で空は青く晴れ渡り、真綿を梳いたような薄い筋雲がゆっくりと、空をよぎってゆきました。




「死」ということについてときどき考えます。それは自分が死ぬとかそういった具体的なことではなく、誰しもが考えるような、死とは何か、死とはどういう状態なのか、人は死んだらどうなるのか、といったこと。
さすがに若い頃とは違い、家族はもとより親類縁者やら友人やら、他にも多くの死と出会ってきました。ただそれでも、実感として、というよりはもっと抽象的な、言ってみれば哲学的なというか宗教的なというか、そんなイメージで受け止めてきたのが本音のところです。それも、ごく身近な大切な人の死ほどそんなふうに突き放して受け止める。けれど、僕のなかでは死=消滅ではなく、こちらの詩のように永遠のものとして存在、存在というのもおかしなものですけど、在るのは確かなところです。皆さんはいかがでしょうか?
(上記の詩はむろんフィクションです)




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