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人と関わることに合理性はあるか?生きるとは?

僕が取得した博士号は「博士(医学)」ですが、博士号は英語ではPh.D.と書きます。Doctor of Philosophyの略で、哲学博士という訳です。どんな専門分野でも、哲学博士なのです。もともと科学が発展したのは、哲学をもとにして枝分かれし細分化してきた学問だからです。そして、博士とは”その分野を突き詰めた、哲学を持つもの”ということになりますね。

「人との関わり・生きること」これらはいつの時代も、人間のほぼ全員を悩ませてきた課題だと思います。今回は「合理性」というテーマにフォーカスして考えてみたいと思います。今回はちょっと哲学的な話。

人と関わることに合理性はあるか

最近Youtubeなどのネットのメディアによく登場しているコメンテーターさんがおっしゃっていたことが印象に残りました。
とある動画の中で、「人と関わらなくていい、人と関わることに合理性がない」と感じていらっしゃるとお話しされていました。「バカがうつる」ともおっしゃっていました。
これを聞いてどう感じ、何を考えるでしょうか。

確かに、人と関わることで時間を無駄にしたりバカになっていく感覚はある気がします。
そこまで仲良くもない相手と付き合いで飲みに行く、日頃の愚痴や世間話をする、お酒の勢いで集団でふざける…
一人では羽目を外さないようなことでも、誰かと一緒だと一線を超えていまうような場面もよくあると思います。飲み会の後になって、あれ、なんであんなことしてたんだろな…と感じる経験はあるあるだと思いますが、これはお酒が悪いのではなくて、その場で人と関わっていたからこそ発生したことなんだと思うんです。飲み会での一気飲みなんて一人で飲んでたら普通発生しないですよね。
人は人と関わったり集団になったりすると気が大きくなったり間違えたり、思考停止したりするものです。

これは大人数じゃなくても、です。仕事をしていて、自分一人で回していた時にはうまくいっていた作業が、誰かが手伝いに入ったりすると急におかしくなったりミスが増えたりすることありませんか。
…人と関わると、何だかロクなことがないですね。

何を隠そう、僕も昔から人間嫌いなところがあるので、人と関わることは基本的にストレスを感じます。人と喋っていて時間を無駄にしたなぁと感じることも時にはあります。この時間を使って一人で読書できていたらもっと有意義だったんじゃ無いか〜と思ってうんざりする時もあります。

望んでもいない飲みニケーションとかこの世で最高に必要無いものの一つだと思っています。飲まないと作れない関係なら僕は必要ないし、そこで教えてもらえる情報なんてググっても出ます。

そう考えると、人と関わることに合理性って全然ないんです。ものすごい時間と精神を割いているのに、得られるものが少なすぎる。時間的にも精神的にもコスパが悪いということになります。

人と関わることは、受動的な成長の機会

しかし、人と関わらないようにすると大きなデメリットが一つあります。
人と関わらないと、世界が自分の意見だけになってしまうんです。
どういうことかというと、自分の考えたものが全てになってしまうのです。

能動的に自分だけで学んだり成長することはもちろん大事でしょう。何か知識を得たいなら自分で勉強するよ、と。でも、能動的というのは自分から動くということなので、必ず主観的になり、偏りが生じます。それでは世界の見え方の解像度はほとんど変わっていかないのです(自分のメガネでしか見ていないということ)。

人との関わりは受動的に価値観を受け取る機会です。
受動的ってなんだか単に受身というか、自己啓発の話などでは少しネガティブな意味合いで使われることもあるかと思いますが、ここではとても重要です。

人との関わり学んでいくことは、その人のメガネの存在を強制的に知ることです。その人はどんなメガネを通して、どんな風に見えているのか。どんな風に感じているか。
同じものを見ていても人によって感じ方は千差万別です。それを一つ理解するだけで、自分のメガネのみで見ていた世界の解像度が、一気に上がっていくはずです。

確かに人と関わることは一見合理的ではないと結論できるかも知れません。しかしそこには、自分一人では得ることのできない、かけがえのない価値が詰まっているのです。

世界は合理的にできていない

ところで、そもそも合理的であることは良い事か?という疑問が湧きます。合理的な判断、合理的な作戦、合理的な考え…合理性があることはいいことだ!という気がしてしまいますが、果たしてそうでしょうか。

僕は、合理的であることは必ずしも良いこととは思いません。なぜなら、世界は合理的にできていないからです。合理的というのはある一瞬を切り取って人間がその時の基準で判断しただけにすぎないからです。見方を変えたり、立場が変われば合理性というのは簡単に手のひらを返すものです。

例えば、人間は、合理的な判断ができない生き物と言えます。
何処の馬の骨かもわからんコーイチの記事を読んでくれたり、時間を溶かして誰かと長電話していたりする。太るとわかっているのに食べすぎて、明日眠くなることがわかっていて夜更かしをする。

いやいやそれは堕落した人の話だ、と言いたくなるでしょうか?
それならば、芸術を楽しむってどういう感覚でしょうか。音楽を聴く、絵を鑑賞する、これらは、生きることには直接的には何も影響しないことです。

それでも、確かに人間には、歌や踊り、綺麗な絵画や景色に心を揺さぶられる感情が存在するものです。時にそれは誰かの生きがいとなるほど望まれるものでしょう。

どうしてこんなに人間は非合理的に見えるんでしょうか。
そもそも生物が「生きる」ということは合理的に見えません。次の世代に命のバトンを繋ぐため、子孫を残すために進化を重ねて環境に適応してきたとよく表現されますが、それはあまり正しくない表現です。たまたま繋がってきて環境によって特徴が変わってきたというだけのことなんです。
なのでそもそも、子孫を残すのが目的であれば、細菌みたいに単細胞生物でたくさん増殖して行った方がいいわけです。
人間が人間である必然性はどこにもない。そこにあるとされる”目的”は、人間が見たときに勝手に意味付けされているものなのです。

つまりこの世界は人間にとって「偶発」と「目的」によってできています。たまたまの奇跡の積み重ねと、それを見て解釈を付け加えられた目的があるのみなんです。

もちろん生命の活動は物理法則に則っています。原子があって分子があって、体ができていて、電気的な信号によって脳が活動し、意識が生じています。だから生命現象は物理学で説明できます
でも、それによってどんな意識が生じるか、どう行動するか、どう生きていくかは物理学や生物学では完全に解き明かすことはできません。

つまり、あなたがどう感じるか、あなたがどんな人生を歩むか、合理性だけでは説明のつかない世界が広がっているんです。だからこそ、人と関わることに対して合理性は求めなくてもいいのです。生きていく上で合理性にこだわる必要は、本当はないんです。

誰かと話せて楽しかった、知らないことを知れた、そんな純粋な感情を、少し味わうだけでもいいんじゃないでしょうか。
僕はそんな非合理的なことを思っています。

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