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第二次世界大戦の爆撃機B-29に乗って感じたこと【前編】

こんにちは、ミネソタより、コーイチがお届けします。
アメリカでは半日遅れて8月15日を迎えました。こちらでは”対日戦勝記念日”ですが、日本では敗戦の決まった日として、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」いわゆる終戦の日として戦争という出来事に思いを馳せる日になっているわけです。

先日、とても貴重な経験をさせていただきました。第2次世界大戦の象徴的な航空機ということで世界的に有名なアメリカの爆撃機、B-29に乗せてもらい、ミネソタの空を飛行しました。B-29という航空機はどんなものなのか、そしてそれに乗って感じたことを書いていきたいと思います。

前編の今回は、B-29について簡単にご紹介します。(僕はミリオタでも専門家でもありませんので、興味を持ってくださった方はぜひご自身で調べてみてくださいね!間違いの指摘もありましたらお願いします)

記念空軍による搭乗体験会に参加しました

今年2022年は終戦から77年。日本とアメリカは友好関係を築いて久しいわけですが、当時はこの平和は想像もできなかったでしょう。なんでもない日本人が、B-29に乗ってアメリカを遊覧飛行するほど平和になっているなんて。

記念空軍(CAF: Commemorative Air Force)は先の大戦時のヴィンテージ飛行機を維持管理している団体で、全米で定期的に航空ショーを開催しています。今年はミネソタにB-29とB-24がやってきました。
会場に着くと、予想はしていましたが白人ばかり。アジア系やアフリカ系の人は全く見かけないという場違い感がありつつ、少し無愛想なお姉さんの受付を済ませて緊張しながら会場入りしました。まさにB-29に乗って朝鮮戦争に行っていたというおじいさんもおられ、ますます縮こまってしまっていましたが、滑走路に目をやると…


B-29後ろから

静かにおいてあります。目の前に、B-29の後ろ姿が見えます。


この機体はFIFI(フィフィ)と名付けられたもので、現存する、2機の空を飛べる状態のB-29のうちの一機です。1970年代に砂漠の海軍の試験場でミサイルの標的になっていたものが発見されて、修理されたもの。2010年に4基の新しいエンジンをつけて空に戻ってきた飛行機です。

B-29とは

B-29はアメリカのボーイング社が1940年代に製造した戦略爆撃機です。のべ3970機が製造されました。(そんなに作られてたんだ…)

※戦略爆撃とは:戦力同士がぶつかる戦術爆撃とは異なり、戦地の遠くから飛んできて大量破壊兵器などを落とすことによって武器の製造工場や空港、そして国民そのものの命を奪うことで敵国の戦闘力と共に戦意を失わせます。

現在は無人機や長距離ミサイルなどが登場したことによって戦術爆撃と戦略爆撃の区別は無くなってきたようですが、当時このB-29は対日戦争において戦略爆撃機として非常に重要な役割を果たしました。それが日本本土空襲原爆投下です。

今から78年前の1944年6月15日、北九州の八幡製鐵所をB-29が爆撃したのが日本初空襲となりました。75機のB-29が中国四川省の成都から出撃してきました。
それでも夜中の12時という暗闇の中、高速かつ高高度で飛ぶ、当時正体不明の爆撃機を相手に、日本もただ爆撃されていたわけではありませんでした。屠龍飛燕といった日本軍の飛行戦隊の戦闘機が迎撃し、B-29の撃墜を報告しています。この飛行戦隊は来たる爆撃機の襲来に備えてもう訓練をしていたわけです。

しかしながら、長崎や名古屋などが次々とB-29による空襲に襲われることになります。そして1945年3月10日、325機ものB-29の出撃によって東京大空襲が行われます。これによって東京は焼け野原になりました。この時の死者数は約10万人に及び、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大とされています。空を覆い尽くすようなこの大型爆撃機の様子は恐怖以外の何ものでもなかったと思います。

このように、B-29は日本にとっては恐怖の存在、そしてアメリカを含む連合国側からは最大の戦果を上げた機体として語り継がれ、歴史に名を刻むことになったわけです。現在では最も有名な第2次世界大戦時の爆撃機と呼べるでしょう。

80年も前と思えない装備の数々


B-29

B-29は別名がSuperfortress(スーパーフォートレス: 超空の要塞)とされているほど、当時最新鋭の重装備をこれでもかと搭載した飛行機でした。
B-29は戦争の爪痕を考えると日本にとっては悪魔のような存在ですが、一つの航空機という技術の塊として見ると、とても興味深く、複雑な気持ちの中にもかっこよさすら感じてしまう機体です。

コックピット内部から

スターウォーズのミレニアムファルコンのデザインにも影響を与えたと言われる独特なフォルムのコックピット。この一番見晴らしの良い中央には爆撃手が座ります。


B-29のエンジン。プロペラは直径5メートルもある

エンジンは、かの有名なライト兄弟が創業したライト社によるR-3350というレシプロエンジンを4基搭載しています。プロペラの直径は5mもあります。
しかしこのエンジンはかなりの頻度でエンジン火災を起こしたらしく、まさに「火炎放射器」とか「消耗品のエンジン」と呼ばれていたようです。しかしそのパワーは強力で、高度1万メートルで最大2000馬力、最高速度570km/hという戦闘機並みの速度で飛べたとのことです。
圧縮空気をエンジンに送って燃焼効率を上げるターボチャージャーが搭載されていて、そのおかげで空気の薄い上空でもエンジンの出力を保つことができたんですね。写真では排気タービンのダクトが見えています。

B-29はもともと長距離飛行を念頭に設計された機体です。60トンもの重量で、その航続距離は約5000km、片道2500kmもの距離を飛ぶことができたのです。武器として爆弾は9トンまで搭載することができました。

航空機関士の席。後ろ向きに座る

航空機関士が座ってエンジンをコントロールする席が設けられている。当時は珍しかったらしく、パイロット、機関士、爆撃手、銃手と、飛行に関して作業が分業化されていました。乗組員数は11人です。

当時最先端の電子技術だったレーダーも搭載しています(痛恨の写真撮り忘れ)。これによって長距離航法を可能にし、爆撃時の高度測定と地形マッピングにも利用されました。
現代では目的地に着くために地球上での自分の位置を把握するGPSがありますが、今考えるとそれ無しでこのような長距離を飛行するというのは凄いことです。

機体の後部に乗り込みます(入り口はかなり小さい)。


機体前部と後部を繋ぐパイプ。ほふく全身で通り抜ける。

爆弾の格納庫は機体バランスの関係で中央にあるため、乗組員のスペースは前後に分かれている。それを繋ぐためにパイプが渡されている。この中をほふく前進で行き来します。


爆弾の格納庫

このパイプの下は爆弾の格納庫。ここに原子爆弾も搭載されていたのです。


銃手の席

機体後部には銃手の座る通称「床屋の椅子」があります。ドーム状の窓から顔を出して、手元のハンドルで360度、機銃を使った攻撃ができます。

射撃ハンドル。これが360度回せる


ドーム型窓から見た機体上部(機首の方を見ている)

銃手から離れた位置の銃が正確に狙った場所を打てるように、ハンドルの位置から補正された角度をアナログコンピューターが計算し、銃に反映されるという最新の装備が搭載されていました。
なんでわざわざ機銃が離れた位置についてるかというと…それがわかるところがあります。


圧力隔壁のハッチ

それは圧力隔壁です。上空は気圧が低くなり、高度1万メートルでは地上の4分の1になります。高いところを飛行するためには、当時酸素マスクなどが使用されていましたが限界がありました。このB-29には今では当たり前となった与圧システムがついていたのです。乗組員は全員このタンクのような部屋の中に入るということになります。これによって高高度の飛行が可能になり、日本軍からの反撃を寄せ付けずに爆撃する算段だったのです(実際には爆撃の精度が落ちるのでもう少し低く飛ぶ羽目になったらしい)。
というわけで、乗組員は与圧室内にいるので、普通の爆撃機のように銃座に直接乗り込んで操作することができないので機銃を遠隔操作するシステムが採用されているんですね。

各種ワイヤーがむき出し

操縦のためのワイヤーがむき出しになっています。操縦桿を動かすとこれが引っ張られて翼の可動部分が作動する(これに触って操縦に影響が出たら…と思うと怖すぎる)

前編はここまで。次回はいよいよフライトでの体験についてお話ししたいと思います。


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