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生きづらさの正体

誰しもちょっとした生きづらさって感じる瞬間があると思います。今日は僕が感じてきた生きづらさと、その正体は一体何だったのだろうか、ということを考えたいと思います。

前半は僕自身が感じる生きづらさについて

【先端恐怖症】

これは物心がついた頃から当然のように自分が感じていたことなんですけど、特に疲れている時、棒状のものを見るのが辛いのです。太鼓のバチとか、お箸、鉛筆、ストロー、電柱、細長いペットボトルの蓋、僕に向かって刺される指…
いつもではないんですが、疲れていると特にひどいです。眉間を剣で貫かれる感覚がして、目を閉じずにはいられません。頭痛がして、ひどい時は吐き気がして熱が出ます。
目が疲れてるのでは?と言われていたので、これが特別なことだとは思いませんでしたし、別に”怖い”って感じるわけではないのです。体が反応してしまうだけなので。
しかしどうやらこれは恐怖症の一種の様です。確かに、高いところで下半身がすくむのと近い感覚です。こわい、というより生理的な反応としてこわい。これは尖ったものをたくさん使って実験している生物系の研究者にとしては度々辛くなります。ひどい時は、車を運転しながら、電柱を見ても街路樹の枝を見ても目を閉じてしまいます。そういう時は車を停止しなければならないので結構生きづらいなって感じます。

【潔癖症】

今ではかなり克服した潔癖症ですが、これもとても生きづらいと感じる要因でした。まず、飲み物の回し飲みなど絶対したくないですし、人の握ったペンも使えません。今はパンデミックということでみんな接触に気をつけている世の中ですが、ずっと幼少期からこれが僕の中では当たり前でした。公衆トイレのドアノブなんて恐怖の対象でしかないです。
でも自分の部屋がめちゃくちゃ綺麗かというとそうでもないんです。あと、泥とか自然のもので汚れたものは汚いとは思いません。気持ち悪いのは人間由来の成分なんですよね…。幼稚園、小中学生の頃は特に生きづらかったです。

【人の話を聞く集中力が無い】

体育の授業だからと体育館に行くと、誰もいない。今日は外の運動場だって先生がさっき言ってたじゃないか!みたいに言われることが一度や二度ではありません。毎日のように起こります。いや、先生は絶対そんなこと一言も言ってなかった!って自分では思うんです。先生は言った気になっているだけ、そしてみんなも聞いた気になっているだけだって、本気で思っていました。自分は一から十までよそ見もせず完璧に聞いているのです。だから、言った言わないの口論になることが多々ありました。
でも、そのつもりになっているだけでした。文章を書く様になってからわかったことです。完璧に推敲できた、何回読んでも誤字脱字ない!って思っても、日を改めると後からどんどん誤字脱字が見つかる。ペンで塗りつぶしながら一文字一文字読んで推敲しても、それが起こる。
どうやら僕は集中しているつもりで全くできていないんですね。これは今でも相変わらずですが、仕事上では信用問題に関わるので、メモを取ったり、必ずメールでの文章に残る形でやりとりしたり、時間を置いて推敲したり、色々と対処法を活用できる様になってきました。ですがこれも周りから怒られることばかりで、やはり生きづらい。なんでみんな普通に人の話聞けるの。

【完璧主義】

話を聞く集中力や文章の話に通じますが、僕は完璧を求めすぎる様です。1から10まで聞けなくても仕方ない、何文字か誤字があっても、推敲を繰り返して直していければ
良い。そんな風に考えられれば良いのですが、なかなかそう思えない。資料の作成も60%でもいいから素早く出すことが大事と言われるけど、120%にするまで終われない。だからいつも人一倍ラボで時間を過ごすことになる。しかも、それで出来上がったものが完璧というわけでもない。そのことに苛立って余計次回から完璧主義になる。…という悪循環で生きづらい。

生きづらさとは何か

なんてこった。なんて生きづらいんだ。こんなことに気を取られてたらずっと苛立ち続けていなくてはならない。
そういうことを考えていたら、なんとなく自分の中での生きづらさの正体がわかってきたんです。

生きづらさ、それは、他人と自分を比べた時に感じる無力感だなって思うんです。
言い換えるなら、「その他多くの人の中で自分が違うことが”生きづらい”」ということになると思います。

思い返すと全部そうです。汚いと感じる世界は、誰かのキレイ汚いの価値観と自分の価値観の違いによるもの。人の話を聞けない怖さも、みんな聞けているのに自分だけ聞けていない恐怖。自分にも他人にも完璧を求めてしまうのに自分が完璧でないストレス。

全部そういうものって、世界に自分一人だけだったら、その生きづらさは存在しないよな、って思うんです。だって自分に目を向けたら気付きます。大した病気を持ってるわけでもない、体も自由に動く、美味しくご飯を食べられる。とっても恵まれてて生きやすいじゃないか。

なぜ人って、こうも自分と他人を比べてしまうものなんでしょう。例えその他大勢の人ができていることだからって、自分ができなきゃいけないことはないし、大勢の人の価値観に必ずしも添わなきゃいけないわけではない。
それでも他人の価値観を想像して(ここポイントです。他人の価値観や当たり前の常識って、自分が思い込んでるだけです)勝手に自分のできないことや思い通りにいかないことに気づいて残念に感じてしまう。これが生きづらさの正体なんですよね。

生きづらさを感じないためには

では生きづらさを極力感じずに生きるにはどうすべきか。それは他人と自分を無意識に比較をしている自分に気がつくことが第一歩なのかなと思います。

先端恐怖症、これは誰と比べるわけではなく自分のことなので、少し違う生きづらさなのかもしれないですけど、結局ある意味では、恐怖症を持ってない人と比べた時に生きづらくなると思うんですよね。ある時までそれが当然だと思っていたように、それが自分だけなのかって思った時に生きづらいなぁという感覚になってしまうんですよね。

僕は程度が軽いから、なんてことない話なんですけど、例えば生まれつき障害を持っている場合、事故とか病気で何か今までできていたことができなくなった時、やっぱり生きづらさを感じる瞬間があると思います。これをどう対処したらいいか、まだ僕はわからないんですけど、もしかしたらこれも、他人との比較をやめることに本質があるのかもしれないという気がしています。

とはいえ、生きづらさを感じることが人生のバネになる時もあるので、どんな時も、自分の気持ちを大切にしたいですね。

あとがき

生きづらさを感じている時って、きっとその人なりに一生懸命になってる証だと思うんですよ。だから僕はもう、「うわ生きづらっ」ってなったら、よく頑張ったお疲れ、またあした。って呟いてます。

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