【短編】晩夏に溶ける残像
夕暮れに鳴く蝉の残響は、夏の終わりを知らせてるみたいだ。
尖らせた鉛筆を垂直に持ち、対象の輪郭を測る。その立体と質量がキャンバスの中で息を吐く、最も正しいポイントを注意深く探る。校庭で渦を巻く運動部の掛け声。それとは対照的に、僕1人の美術室は静けさが深く腰を下ろしている。差し込む西日が、舞い散る埃をキラキラと反射させる。
目に染みる直射日光を浴びて、向かって校庭の右側に位置するプールを眺める。彼はちょうどジャンプ台に立ち、跳ぶ直前の細やかなルーティンをこなしていた。やがてして、つま先を板の先端に合わせる。
山の稜線に沈みかける夕陽を背景に、プールの水面へ放物線が放たれた。沈黙の後、弾ける黄金色の水飛沫。一連のそれは、僕が歩んできた17年の歴史の中で、どんな肖像画や風景画よりも美しいと感じる瞬間だった。
水滴を纏いながらプールサイドへ上がる彼の姿を追う。彼もまた1人、孤独の中で己と闘っている。漠然と確信を対になすただ一つの美学を求めて、暗闇の中を模索し続ける。親近感と呼ぶには烏滸がましいけれど、彼に僕を重ねて、また僕に彼を重ねてキャンバスと向き合う時間が好きだった。
美術室後方の棚に立てかけられた資料の隙間から、一枚の絵を取り出す。密かに描いた、彼がジャンプ台から飛び込む下絵だ。いつかこれに色を入れたい。その瞬間は彼のいるプールサイドでと決めていた。晩夏の匂いを全て吸い込んだ、当時に生きた証になる一枚の予感がした。
それから少しした日の朝、彼は松葉杖をついて登校してきた。
同学年ではあれど一緒のクラスどころか、彼と話したことすらない。もちろん直接尋ねる勇気など持ち合わせておらず、噂でしかないが自宅の階段で足を滑らしたらしい。どう見ても数日で治るような怪我ではなさそうで、それは包帯に巻かれた脚よりも彼の表情が明確に物語っていた。
それからというもの、彼がプールに姿を見せることはなかった。美術室までもが、さらに深い沈黙で満たされた。やり場を見失った感情のベクトルが四方八方に分散され、再び僕の中へと戻ってきた。
季節は巡り、また夏が終わろうとしていた。
高校三年の、夏の暮れだ。
変わることなく、運動部の掛け声と、けたたましい蝉の声が聞こえる。それがまた美術室の静けさを一層深める。夕陽は、山陰へとゆっくり形を落としていく。
彼の引退試合は、一ヶ月前に終わっていた。怪我は治っていたものの、出場を決めることはなかったようだ。純真な放物線と、黄金色に輝く水飛沫はもう二度と見れないのだろう。筆を置いて、校庭の右に位置するプールを眺めた。誰もいなくなったジャンプ台は、彼の形跡すら少しずつ失われていくみたいで、とても寂しく映った。
キャンバスに集中しようと目を移した一瞬前、求めた残像が実体に変わった。慌てて視線を戻すと、制服姿の彼がジャンプ台から水面を見下ろしていた。
脇目も振らず、資料の隙間に差し込まれた一枚の画用紙を手に持ち、彼のいるところまで走った。通り過ぎていく教室、僕の足音だけが反響する階段。
プールサイドまで辿り着き、息を整えて螺旋階段を登る。その頂上の先には、水面に目を落とす彼の姿があった。
僕の存在に気がつき、彼は驚いた様子だった。
感情の赴くまま、僕は尋ねた。
「跳ぶの?」
すると困ったように笑って、
「跳ばないよ、引退試合も終わったしさ。ここからの風景を、最後に見ておこうと思って」
何を言えばいいかわからなくなって、「危ない」と止める彼に近づいた。
色彩を欠いた一枚の画用紙を手に、彼の前へ突き出した。
「俺じゃん」
手渡す直前、画面が大きく揺れた。
左足が板を踏み外し、空間に行き場を求める。平衡感覚が失われ、体勢を戻そうとした時には既に両足が浮いていた。
焼ける空が眼前いっぱいに広がる中、僕は激しく飛沫を上げてプールに落ちた。
ブハッと水面から顔を出す。
螺旋階段を慌てて降った彼が、プールサイドから「大丈夫か!?」と叫ぶ。遅れて蝉の声がバックミュージックで再生される。瞼から落ちる水滴が、夕陽の光を反射させる。
重力と戯れるように、空から画用紙がふわりと落ちて水面に触れた。
波打つプールの水を染み込せながら、彼の姿は茜色の景色に溶けていった。
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