連載「やさしい生活者」二話_猫の念仏
「強制反対!」
体育館は怒号で震えた。国歌を歌い終えた卒業生の一人を除くみんなが観客席をみた。漏れなく振り返ったわたしと真後ろの彼は目が合ってしまった。なんとも言えない複雑な表情から目線を外し、咄嗟に体勢を整えて前方の重厚な赤紫色したベロアのカーテンを眺めた。彼の父親が何に怒っているのか理解できず、ハレの日に水を指す猛々しい雰囲気にわたしは萎縮してしまった。今思えば何かを守るために大切な反応だったのだろう。とはいえ、わたしが何か訴えるとき、勇ましさや怒りで何かを覆しそうとしても別の反発が起こると思っているから、ちいさな声やみえない振動を表明したい。
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日本で生まれたわたしたちの食事のとき「いただきます」「ごちそうさま」と手を合わせて箸を使って食べる。そして人と出会って別れの挨拶をするとき頭を下げて「ありがとうございました」と言う。
日本の生活様式の中に祈りがひっそり在って、感染予防が備わっている。ハグやキスと違った接触行動を取る。互いに頭を見せ合って攻撃の意志がないことを伝え、頭を下げながら言葉を発するので、飛沫を礼儀所作で防いだ。
八百万の神を信仰する多神教の神道には、創始者(発起人のようなもの)や教義(聖書のようなもの)がない。つまり、生活様式に組み込まれて保存されていて、菌を神として共生していた、と聞く。
又、山本空外上人の著書「念仏のある生活」によれば(簡単に云えば)自然こそが阿弥陀様であり、我々の身体も我々の意識と関係なく勝手に働くのだから身体に阿弥陀様を宿していると捉え、全てに感謝の念をもって「南無阿弥陀仏」と唱えるのだとを説いた。
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念仏、祈り、何かをつよく念じるって確かに大事な気がする。だけれど何か決められた共通の言葉を唱えるのは、何か一つの信仰をどっぷり浸かってしまう畏れのようなものが反応がして、わずかな抵抗がある。だけれどオンラインサロンの力強い言葉よりは信頼するから、大体いつもアニミズム的な思想に辿り着く。
でも科学的にでも分かっていることとして、お酒を接種した身体が何故いびきをかくのかというと喉の震えによって肝臓を共振させてアルコールの分解を促していると聞いた。非合理的にみえる「念仏を唱える」という営みは声の震えによって身体を共振させて何かを分解する助けがあったのだろうと勝手な解釈をしている。
(とはいえ今のところ唱える言葉が見当たらないので「ナムアミダブツ」を母音のみにして「アイアウアウウ」と言えばいいのか。これは廻り巡って危険かもしれない。)
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玄米を大さじ2杯、豆乳大さじ2杯を器に入れて、数日放置する。液体が固まっているのを確認したら豆乳をさらに加えて、放置。さらに加えて、放置を繰り返すと豆乳ヨーグルトができる。もっぱらヨーグルトとさつまいもを食べている。
最近の感覚では、人2名、猫1名、菌複数名との共同生活で生きている。
朝、山から聞こえてくる鳥のさえずりや猫が喉を鳴らす音さえも念仏に捉え直すとしたら、癒されている理由は、振動なのだろう。(わたしはもっぱら腸をゴロゴロ鳴らしながら膝の上にいた猫を驚かせている迷惑者)身体の温度は安定しているのだから菌にとっては良い住処であって腸の発酵はどこまでも進む。健康でいられる理由は、菌との共生なのだろう。
今、社会を身体に捉え直して、例えば政治が脳だとするとちぐはぐな身体になっている。理由は糖(欲)の取り過ぎ。つまり、ちゃんとした病でしょう。自然治癒を願うのであれば、我々一人一人が菌であると錯覚して、地球って身体と共生することかもしれない。
自然の在り方では、共生と共振が大切。でも、菌とは共生できるのに人間の共生は何故か難易度が高く感じるのは何故だろう。「一緒に震えてもらって良いですか?」と声をかけるのはまずヤバい。だからこそ音楽を装った祈りのような音がわたしの身体には必要だし、それならば一緒に振てもらえるかもしれないという灼然なる希望である。
猫のもなかから喉の震わせ方から学ぶところから始めたい。
誰にも強制はしないが、大切な人達と共生はしたい。
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