”国旗を焼く自由”と表現の自由(その2)
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前回(→前回はこちら)に引き続いて考えていきたいと思います。
1 ジョンソン事件判決後のアメリカ政治
前回みたジョンソン事件に関する連邦最高裁の判決を受けて,ブッシュ大統領(父)(George Herbert Walker Bush/1989-1993)は,同判決を非難するとともに憲法改正を示唆しました(憲法改正案は上院の過半数強の賛成を得たにとどまり,成立しませんでした。)。
また,連邦上下院はともに,遺憾の意を表明する決議を圧倒的多数(上院:賛成97,反対3/下院:賛成411,反対5)で可決しました。1989年7月にギャロップ社が実施した世論調査では,一般国民においても7割以上が判決に怒りや失望を表明したとされています。
こうした世論を反映して,1989年10月,連邦議会は改正国旗保護法を制定しました。改正法は,表現の内容に関わらない規制の仕方をする(いわゆる表現中立規制)ことにより,ジョンソン事件判決の射程から逃れることを目的としていたと考えられています。
これに対し,同法施行直後に,同法の合憲性に挑戦する事件が立て続けに発生し,シアトル市とワシントンD.C.とでそれぞれ星条旗が焼かれ,その実行犯らが起訴されました。これらの事件では,いずれも各管轄の連邦地裁が政府の主張を排斥し,89年改正法は被告人らとの関係で適用違憲と判断されました。
事件は上訴され,連邦最高裁において併合審理されることとなり,D.C.での事件の被告人の一人の名をとって,「アイクマン事件」と呼ばれることとなりました。
2 UNITED STATES, Appellant, v. Shawn D. EICHMAN
連邦最高裁は,1990年6月11日にこの事件に対する判決を下しています(判決は→496 U.S. 310)。判決はジョンソン事件同様5対4で,法廷意見は各事件の被告人を89年国旗保護法に基づいて処断することを適用違憲とする下級審の判断を支持しました。
3 アイクマン事件判決の多数意見
アイクマン事件の法廷意見(多数意見)を少し見てみましょう。
The Government contends that the Flag Protection Act is constitutional because, unlike the statute addressed in Johnson, the Act does not target expressive conduct on the basis of the content of its message. The Government asserts an interest in "protect[ing] the physical integrity of the flag under all circumstances" in order to safeguard the flag's identity " 'as the unique and unalloyed symbol of the Nation.' "
(訳:政府は,国旗保護法が合憲であると主張する。それは,ジョンソン氏を処断したテキサス州法と異なり,同法がメッセージの内容に基礎を置く表現行為を対象としないからである。政府は,“唯一無二の国家の象徴”としての国旗の有するアイデンティティを守るために,あらゆる状況下での国旗の物理的完全性を保護する必要があると主張する。法が禁止するのは国旗に損害を与えたり濫用したりする行為(廃棄を除く)であって,行為者の動機や意図されたメッセージ,あるいは聴衆に与える影響などは考慮されない。これに対し,テキサス州法は,明らかに,物理的に旗を冒涜する行為のうち,行為者が見物人を強く不快にさせること知っている行為を禁止しており,改正前連邦法も,国旗を侮辱するような冒涜行為のみを禁止していた。)
Although the Flag Protection Act contains no explicit content-based limitation on the scope of prohibited conduct, it is nevertheless clear that the Government's asserted interest is "related 'to the suppression of free expression,'…, and concerned with the content of such expression. The Government's interest in protecting the "physical integrity" of a privately owned flag rests upon a perceived need to preserve the flag's status as a symbol of our Nation and certain national ideals. But the mere destruction or disfigurement of a particular physical manifestation of the symbol, without more, does not diminish or otherwise affect the symbol itself in any way. For example, the secret destruction of a flag in one's own basement would not threaten the flag's recognized meaning. Rather, the Government's desire to preserve the flag as a symbol for certain national ideals is implicated "only when a person's treatment of the flag communicates [a] message" to others that is inconsistent with those ideals.
(訳:国旗保護法は,禁止行為の範囲に表現の内容に基づく明示的規制を示さないが,それにもかかわらず,政府の主張する利益は表現の自由の抑圧に関連付けられるものであり,そのような表現の内容に関係するものであることは明らかである。政府の主張する国旗の物理的完全性を保護する利益は,それが個人所有の国旗である場合,わが国の象徴や一定の国家的理想の象徴としての国旗の地位を維持する必要性への意識に基づいている。しかし,象徴の特定の物理的顕現の損壊は,それ自体いかなる意味でも象徴に何らの影響を及ぼすものではない。例えば,自宅の地下室で秘密裏に国旗を破壊しても,国旗の認識される意味合いに何らの脅威も生じさせない。むしろ,ある意味での国家的理想の象徴としての国旗を守るという政府の願望は,ある人の国旗の取扱いがそのような理想と背反するメッセージを他の人に伝える場合にのみ関係するものである。)
We decline the Government's invitation to reassess this conclusion in light of Congress' recent recognition of a purported "national consensus" favoring a prohibition on flag burning.…Even assuming such a consensus exists, any suggestion that the Government's interest in suppressing speech becomes more weighty as popular opposition to that speech grows is foreign to the First Amendment.
(訳:我々は,議会が国旗焼却の禁止に対する好意的な国民的合意を最近認識したことに照らし,政府が判例変更を求めたことを受け入れない。仮にそのようなコンセンサスが存在すると仮定しても,ある言論に対する世間の反対が大きくなるにつれて,言論を弾圧する政府の利益がより重くなるという考え方は,修正第1条には縁遠い。)
"If there is a bedrock principle underlying the First Amendment, it is that the Government may not prohibit the expression of an idea simply because society finds the idea itself offensive or disagreeable."…Punishing desecration of the flag dilutes the very freedom that makes this emblem so revered, and worth revering.
(訳:修正第1条の規定に揺るぎない原則があるとすれば,それは,社会が不快だと感じあるいは賛同できないと考える思想だからといって,その思想の表現を政府が禁止してよいということにはならないということである。国旗の冒涜を処罰することは,この紋章が尊崇され,そしてこの紋章を尊崇される価値あるものにしている自由を弱めてしまう。)
結局,連邦最高裁は,内容中立規制を装おうとした連邦議会の立法意図を否認し,国旗を毀損する行為を処罰する立法は,表現行為と切り離せないとしてジョンソン事件の射程内にとどまるものだとの判断をしました。
ある言論に対して否定的な世論が形成され,国民的合意を得たとしても,それがその言論を制約する理由にはならないとの判示は,憲法により保護される自由というものの本質をよく示しています。
社会における多数派は,投票箱と民主制との過程で,その利益や自由を享受し,謳歌することができます。しかし,少数派は,言論によりその主張を社会に広め,いつか多数派を獲得することによってしかその主張を現実化できません(あるいは多数派を説得して少数派の利益を実現する法案修正を勝ち取るなど。)。この交代可能性の確保が,言論の自由市場の価値です。多数の人が不快だからといってある言論を禁じることができるようになると,少数派はその見解を世に伝えることすらできず,多数派の支配が固定化することになってしまいます。しかし,多数=正しいではありません。健全な民主主義は交代可能性と表裏一体なのです。
近時,国旗にかかわらず,他の表現分野においても,「見る人が不快」だという理由で,これを強く批判し,その表現を許している公私の団体に圧力をかける動きがしばしばみられます。このような動きは,表現の自由,ひいては健全な民主制との関係で極めて危惧すべきものだと考えます。
4 アイクマン事件反対意見
アイクマン事件では,ジョンソン事件で独自の反対意見を展開したリベラル派のジョンソン判事が反対意見を起案し,これにレンキスト主席判事,ホワイト判事,オコナー判事が同調しました。
Of course "the Government may not prohibit the expression of an idea simply because society finds the idea itself offensive or disagreeable."… None of us disagrees with that proposition. But it is equally well settled that certain methods of expression may be prohibited if (a) the prohibition is supported by a legitimate societal interest that is unrelated to suppression of the ideas the speaker desires to express; (b) the prohibition does not entail any interference with the speaker's freedom to express those ideas by other means; and (c) the interest in allowing the speaker complete freedom of choice among alternative methods of expression is less important than the societal interest supporting the prohibition.
(訳:もちろん政府は,単に社会がある思想が不快だとか賛同できないだとかいう理由で,思想の表現を禁止することはできない。我々のだれも,その命題に反対しない。しかし,同様に,特定の表現方法が禁止されうる場合があることも十分に確立した命題である。すなわち,(a)禁止が,話者が表現したい思想の抑圧とは無関係が正当な社会的利益に支えられたものである場合,(b)禁止が,話者が他の手段でその思想を表現する自由への干渉を伴わない場合,(c)他の代替的な表現方法の中から話者に完全な選択の自由を認めることの利益が,その行為を禁止する社会的利益より重要でない場合,特定の表現技法は禁止されうるのである。)
…it is now conceded that the Federal Government has a legitimate interest in protecting the symbolic value of the American flag. Obviously that value cannot be measured, or even described, with any precision. It has at least these two components: In times of national crisis, it inspires and motivates the average citizen to make personal sacrifices in order to achieve societal goals of overriding importance; at all times, it serves as a reminder of the paramount importance of pursuing the ideals that characterize our society.
(訳:連邦政府は,現在,アメリカ国旗の象徴的価値を保護する正当な利益を有していると考えられる。明らかにその価値は測定できないし,いかなる精度でも説明することすらできない。アメリカ国旗には,少なくとも2つの要素がある。国家的危機において一般市民を鼓舞し,最重要の社会的目標達成のための自己犠牲を動機付けること,いついかなる時も,私たちの社会を特徴づける理想を追求することが最優先に重要であることを思い起こさせること,である。)
To the world, the flag is our promise that we will continue to strive for these ideals. To us, the flag is a reminder both that the struggle for liberty and equality is unceasing, and that our obligation of tolerance and respect for all of our fellow citizens encompasses those who disagree with us—indeed, even those whose ideas are disagreeable or offensive.
(訳:世界にとって,国旗は,私たちがこれらの理想を実現するために努力し続けることを約束するものである。私たちにとって国旗は,自由と平等を求める戦いが絶え間ないものであり,かつ私たちとは意見を異にする人々―その考えが不快であり賛同できないものである場合でさえ―を取り巻く我々の同胞市民の尊敬と忍耐の義務を想起させるものである。)
Thus, the Government may—indeed, it should—protect the symbolic value of the flag without regard to the specific content of the flag burners' speech.…It is, moreover, equally clear that the prohibition does not entail any interference with the speaker's freedom to express his or her ideas by other means. It may well be true that other means of expression may be less effective in drawing attention to those ideas, but that is not itself a sufficient reason for immunizing flag burning. Presumably a gigantic fireworks display or a parade of nude models in a public park might draw even more attention to a controversial message, but such methods of expression are nevertheless subject to regulation.
(訳:このように,政府は,旗を焼く者の表現の具体的内容に関わらず,旗の持つ象徴的価値を保護でき,実際保護すべきである。さらに,禁止が,表現者がその思想を他の手段で表現する自由を妨げないものであることもまた明らかである。他の表現手段は,その思想への注意を引き付ける上では効果が劣るかもしれないが,しかし,それは国旗を焼くことを免責する十分な理由とはならない。大きな花火大会や公共の公園におけるヌードモデルのパレードは,物議を醸すメッセージに対する耳目を十分に引き付けるだろうが,そのような表現手段は,規制の対象となるだろう。)
反対意見は,国旗の有する価値を多数意見よりかなり重視しています。人種のサラダボウルといわれる合衆国において,国旗の有する国家統合の象徴的価値が極めて大きいと考えるのでしょう。
他方で,表現の自由の重要性については,反対意見も同様にその価値を認めます。ただし,具体的な表現手段ではなく,ある思想を表現する手段が封殺されなければよいでしょうという発想に立つようです(やや乱雑なまとめですが。)。
確かに,表現内容に中立な規制であればそれでよいのかもしれません。
しかし,多数意見は,国旗を焼くという行為は表現内容と分かちがたいとして反対意見と結論を異にしたと考えることができます。
5 わが国の裁判例におけるジョンソン事件判決への言及
実は,わが国においても,ジョンソン判決事件に言及した裁判例(福岡高裁那覇支判平成7年10月26日)があります。
この判決は,国民体育大会のソフトボール競技会の開会式中に,会場に掲揚された日本国旗を会場に乱入して引き下ろし,焼失させた行為が威力業務妨害罪に問われた事件に関するものです。
この事件で弁護人が,ジョンソン事件判決を引用して不処罰を論じたのに対し,判旨は以下のように判断しています。
所論は、被告人の本件行為について、アメリカのジョンソン事件の判決と同様に解釈して、不処罰とすべきである旨主張するので、付言するのに、ジョンソン事件の概要は、(略)。この事例の場合、ジョンソンは国旗冒涜罪でのみ起訴されたのであり、右事件のとき、ジョンソンがあった法的状況は、自己所有の旗を公然と燃やしたに等しいといえるのであり、まずこの点において、被告人の本件行為とは明らかに異なっている。そして、国旗冒涜行為を犯罪とすることによって擁護され得る利益としては、静穏な治安の維持と国家統合の象徴としての国旗の価値にあると考えられるが、ジョンソンの国旗焼却行為によって、秩序破壊が現実に起こったわけではないし、起こる危険が生じたわけでもなかったので、静穏な治安の維持という法益の保護は、適用違憲を判断する限りにおいては問題とならない。それに対し、国家統合の象徴としての国旗の価値の維持という利益は、明らかに言論行為を抑圧することに関連する。すなわち、州が国旗冒涜行為を犯罪として抑圧するのは、まさに冒涜行為によって人々が信じかねないメッセージを伝達させたくないからであり、それによって国旗の地位を保持せんとするからである。そうすると、この場合は、規制の目的が自由な表現の抑圧に関係するもの(表現効果規制)に当たり、表現内容の規制に関する厳格な基準によって処罰の合憲性が判断されることとなり、連邦最高裁判所は、この厳格な基準により合憲性を審査し、右のとおり判断したものである。この点においても、非表現効果規制の場合に当たる被告人の本件行為とは大きく異なっているのであり、結局のところ、ジョンソン事件と本件とを同列に論じることはできないから、所論は採用できない。
簡単にいうと,行為態様が全く異なるので同列には論じられないということです。
それは確かにそうなのですが,この事件においても,被告人の行為の持つ表現的価値をどのようにとらえるかについては,判旨と異なる解釈がとりうる可能性はあります。
もちろん,住居侵入罪や器物損壊罪,威力業務妨害罪にあたりうる行為を表現の自由ゆえに正当業務行為として違法性がない,つまり無罪としてよいかどうかは問題で,この事件に関しては結論において正当であったとは思います。
6 雑感
表現の自由の有する価値に鑑みたとき,国旗損壊罪立法が危険性を有するか,少なくとも自由とかなりの緊張を持つものであることはこれでご理解いただけたでしょうか。
規制派の議員諸氏においては,少なくとも合衆国の2つの判決で反対意見が示した程度の意見を立法趣旨として展開してもらいたいところです。日の丸がわが国において受けている評価,果たしてきた役割云々…。
外国国章等損壊罪があるのに日本の国旗を保護する法がないなどという雑な提案理由はいりません。外国国章が保護されているのは,その損壊が行われるとわが国の外交関係が損なわれるおそれがあるからであり,日本で日本の国旗が損壊されても損なわれる外交関係がないことはすぐ考えればわかります。このように,ある規制立法を基礎づける利益を保護法益といいます。
国旗損壊罪を定める場合,その保護法益は何なのか。国民統合の象徴等とするなら,アメリカの例にみられるように表現の自由との関係をどう理解するのか。また,わが国には,国民統合の象徴として天皇陛下がおられることがどのように影響するのかも考える必要があるかもしれません(普通に考えると国旗の要保護性はこの法益との関係では下がるのではないでしょうか。)。
7 まとめ
この問題は,事程左様にかなり微妙かつ繊細な問題をはらんでいます。
人々が国旗に愛着と尊崇の念を持ち,あるいは持ち続けることができるような国政運営がなされて欲しいと思いますし,私も国家共同体の構成員の一人として,そのような心持ちでありたいとは思います。
しかし,他方で,それを刑罰をもって強制することは,米最高裁の言葉を借りれば,国旗自身が体現する価値をむしろ希薄化させてしまうのではないでしょうか。
もちろん,ここは日本ですから,アメリカとは歴史も社会も異なります。国旗が社会で受けている評価も,これまで果たしてきた役割も異なるでしょう。ですから,アメリカでの議論がそのままスライドするかどうかはわかりません。ただ,人権の普遍性という近代立憲主義国家を支える理念を前提とするのであれば,表現の自由の役割は,国によって変わらないはずです。
立法府に提案がなされた場合,このような背景も踏まえた慎重な審議がなされることを望みたいところです。