”国旗を焼く自由”と表現の自由(その1)
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1 国旗損壊の処罰規定創出?
わが国の国旗(日章旗)について,これを損壊することを刑罰をもって規制することを与党が目指す可能性についての報道がなされています(→ニュースはこちら)。
これに対し,賛成派,反対派双方からSNSを中心に活発に議論がなされています。
日章旗が事実上わが国の国章として扱われるようになってからの歴史はまだ150年ほどであり,わが国の長い歴史からすればそれほどの年月を閲してきているわけではありません。
とはいえ,私自身,生まれてこの方日の丸が国旗でしたし,国際大会などで日の丸が掲揚され君が代が吹奏されると感動を覚えます。日の丸,日章旗にはそれなりに愛着があるといってよいでしょうし,敬意のようなものもあると思います。
しかし,それが刑罰をもって保護されるべきかといわれると躊躇を覚えます。
特に,他人の所有する日章旗を損壊した場合は,いまでも器物損壊罪での処罰が可能であること,外国国章損壊等罪(刑法92条)との対比が語られていること,などからすると,目指されている法律は,「わが国に対して侮辱を加える目的で」国章を損壊すること等を禁じるものになるのではないかと考えられるところ,このような行為は,わが国または政府に対する批判的言動であろうと考えられるため,そのような言動は,表現の自由との緊張関係をはらむのではないかと考えられます。
2 アメリカにおける議論~前提としての連邦憲法修正第1条
国旗損壊と表現の自由をめぐる論説は,海の向こうのアメリカ合衆国において,繰り返し法廷で争われてきた問題です。
なお,アメリカ合衆国憲法は,その修正第1条で言論の自由を保障しています。
Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the government for a redress of grievances.
(議会は,国教の樹立を支援する立法をすることができず,信教の自由の行使を禁止したり,表現や報道の自由を制限したり,平和的集会の権利や政府への苦情処理の請願の権利を制限したりする立法をしてはならない。)
表現の自由は,もちろん日本国憲法でも保障されています。
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
3 表現の自由の優越的地位
ところで,表現の自由に代表される精神的自由は,基本的人権の中でもとりわけ優越的地位を占めるものと考えられています。
例えば,このブログは,私自身が日常想起する徒然を書き連ねた駄文ですが,こんなものでも多くの方々に訪れていただければ非常にうれしいですし,ご評価をいただければなおさらです。文をまとめる中で,自分の思考整理もできます。表現が持つこのような価値を「自己実現」に資するものといいます。
また,多くの人々が意見や主張,あるいはそのもととなる事実等を公表し,表現することは,国や地方の行く末を決めるための議論の素材として重要であり,私たちの社会を運営する根本となっている民主政治が健全に営まれる大前提となっています。これを,表現の持つ「自己統治」に関する価値といいます。
そして,表現の自由が不当に抑圧され,人々の意見や主張が正常に社会に表明されなくなると,正常な議論が成り立たなくなります。まともな議論や事実を踏まえずになされる選挙には意味がありません。反対意見やそれを支える事実,資料が隠されたまま行われた選挙は正当な民意を反映したものとはいえないからです。
その意味で,表現の自由に関して誤った政策が行われるとき,それを選挙という正常な政治過程で修正することは極めて困難か不可能という特質があるのです(表現の自由が保護する言論活動は,選挙という民主政の過程の中に組み込まれているがために,それが歪むと中からは修正できないということです。)。
こうしたことから,精神的自由,表現の自由の規制に関しては極めて慎重でなければならないという準則が導かれています。
以上の2,3を前提に,アメリカにおける国旗保護法制とその正当性判断に関する過去の議論を見てみましょう。
4 TEXAS, Petitioner v. Gregory Lee JOHNSON.
連邦最高裁が1989年6月21日に下した判決で,テキサス州がジョンソン氏を被告人として訴追した刑事事件であり,「ジョンソン事件」と呼ばれています。
ジョンソン氏は,1984年の共和党全国大会の期間中に,レーガン政権(当時,共和党)に反対するデモ活動に参加し,その中で合衆国国旗(星条旗)を焼きました。
この行いでジョンソン氏は,崇敬の対象となっている物の損壊を禁じるテキサス州法に違反したとして起訴され,有罪判決を受けました。これに対しジョンソン氏は上訴し,州刑事上訴裁判所で判決が覆り,無罪判決となりました。これに対し,テキサス州が連邦最高裁に上告受理申立てを行ったのが本件です。
最高裁は,判事5対4の僅差でテキサス州刑事上訴裁判所の決定を支持する判断をしました(判決は→491 U.S. 397 (1989))。
つまり,ジョンソン氏の無罪は維持されたのです。
4 ジョンソン事件の多数意見
この裁判では多くの論点が扱われましたが,多数意見には印象的な判断や表現が多数みられます。いくつかみてみましょう。
If there is a bedrock principle underlying the First Amendment, it is that the government may not prohibit the expression of an idea simply because society finds the idea itself offensive or disagreeable.
(訳:修正第1条の根底に揺るぎない原則があるとすれば,それは,政府は,社会がそれ自体不快であるとか同意できない思想であるからといって,それを理由にその思想の表現を禁止してはならないということである。)
There is, moreover, no indication—either in the text of the Constitution or in our cases interpreting it—that a separate juridical category exists for the American flag alone. Indeed, we would not be surprised to learn that the persons who framed our Constitution and wrote the Amendment that we now construe were not known for their reverence for the Union Jack. The First Amendment does not guarantee that other concepts virtually sacred to our Nation as a whole—such as the principle that discrimination on the basis of race is odious and destructive will go unquestioned in the marketplace of ideas.
(訳:憲法典の条文中にもそれらについてのわれわれの判例中にも,国旗だけのための特別の法領域が存在することを指し示すものはない。実際,我々の憲法を起草し,我々が解釈している修正条項を起案した人々がユニオンジャック(筆者注:英国国旗)に畏敬の念を抱いていたことが知られていなかったことを知っても驚きはない。修正第1条は,人種による差別が嫌悪すべきものであり破壊的であるといった原理のように全国民にとって事実上神聖な概念であっても,それが思想の市場において疑問の余地なく扱われることを保証しない。)
And, precisely because it is our flag that is involved, one' response to the flag burner may exploit the uniquely persuasive power of the flag itself. We can imagine no more appropriate response to burning a flag than waving one's own, no better way to counter a flag burner's message than by saluting the flag that burns, no surer means of preserving the dignity even of the flag that burned than by—as one witness here did—according its remains a respectful burial. We do not consecrate the flag by punishing its desecration, for in doing so we dilute the freedom that this cherished emblem represents.
(訳:そして,我々の国旗が関係しているからこそ,旗を燃やす人への反応としては旗そのものが持つ説得力を利用することができよう。旗を燃やすことに対する適切な反応としては,旗を振ること以上のものを思いつかないし,旗を燃やす者のメッセージへの対抗として燃える旗へ敬礼すること以上の手段はない。燃えた旗の尊厳を守るためには,ある目撃者がしたように,その残骸の敬意ある埋葬をもってするにしくはない。冒涜行為を罰することにより旗を神聖化することはできず,そうすることによってこの大切な紋章が表象する自由をむしろ希薄化させてしまう。)
連邦最高裁は,上記のように述べたうえで,ジョンソン氏の行為には平和を乱すおそれはなく,かつ,国民性と国民統合の象徴としての国旗を保護するという州の利益は,政治的表現を行った同氏に対する有罪判決を正当化するものではないと断じています。
また,表現行為はその内容によって規制されるべきではないし,表現行為への対抗は表現行為でなされるべきという表現の自由に関する重要かつ基本的なルールも,国旗に関連する方法で印象的に表現されています。
なお,ケネディ判事は多数意見を支持しつつ補足意見を執筆しています。
The hard fact is that sometimes we must make decisions we do not like. We make them because they are right, right in the sense that the law and the Constitution, as we see them, compel the result. And so great is our commitment to the process that, except in the rare case, we do not pause to express distaste for the result, perhaps for fear of undermining a valued principle that dictates the decision. This is one of those rare cases.
(訳:時折,私たちが好まぬ決定をしなければならないのは厳然たる事実である。我々はそれが正しいからそうする。正しいとは,法や憲法が解釈においてそう結論付けることを強いるという意味である。その判断過程における我々の責任は極めて大きいために,ほんの稀な例外を除き,私たちがその結論に対する嫌悪感を表明して立ち止まることはない。おそらく,その判断を決定づける価値ある原理を弱めてしまうことへのおそれがあるのだろう。これはそんな稀なケースの一つである。)
ケネディ裁判官は,憲法解釈上法廷意見が正しい場合には,躊躇なく裁判官はその結論を支持するのであり,結論に嫌悪感を生じるからといって通常戸惑うことはないとしつつ,この件では躊躇を感じてしまうと説明しています。テキサス州法による処罰は,表現の自由の保護に抵触するという法的な結論には賛同しつつ,その結論に対し,ケネディ判事は心情的に抵抗感を感じていると告白しているのです。
With all respect to those views, I do not believe the Constitution gives us the right to rule as the dissenting Members of the Court urge, however painful this judgment is to announce. …, the flag is constant in expressing beliefs Americans share, beliefs in law and peace and that freedom which sustains the human spirit. The case here today forces recognition of the costs to which those beliefs us. It is poignant but fundamental that the flag protects those who hold it in contempt.
(訳:…私は,(反対意見を尊重しつつ)憲法が我々に反対派判事らが求めるような裁定をする権限を与えているとは考えない。たとえこの判決を公表することが痛みを伴うものであったとしても。…国旗は,アメリカ人が共有する信念,法と平和そして人間の精神を保つ自由という信念を表現する不変のものである。今日ここにこの事件は,これらの信念が私たちに委ねている代償を認識させた。国旗が国旗を侮蔑する者を守るということは痛恨ではあるが,しかし本質的なことでもある。)
ケネディ判事のこの補足意見は,多数意見を支持しつつも,国旗に対する冒涜行為を無罪とすることが心情において支持しがたいというアンビバレントなものであることを強く示唆しています。
さらにいえば,判事は,そのような心情は国旗に対する敬意に由来するが,その敬意は,国旗が(表現の自由を含む)自由という信念を表現するものであるからだとしており,2つの問題が極めて密接かつ複雑に絡み合っていることを明らかにしています。
5 ジョンソン事件に対する反対意見
他方,主席判事であったレンキスト判事は反対意見を展開し,これにホワイト判事,オコナー判事が同調しています。
The American flag, then, throughout more than 200 years of our history, has come to be the visible symbol embodying our Nation. It does not represent the views of any particular political party, and it does not represent any particular political philosophy. The flag is not simply another "idea" or "point of view" competing for recognition in the marketplace of ideas. Millions and millions of Americans regard it with an almost mystical reverence regardless of what sort of social, political, or philosophical beliefs they may have. I cannot agree that the First Amendment invalidates the Act of Congress, and the laws of 48 of the 50 States, which make criminal the public burning of the flag.
(訳:アメリカの国旗は,200年以上の歴史の中で,私たちの国を体現する目に見える象徴となってきた。それは何か特定の政党を表象するものではなく,特定の政治哲学を表象するものでもない。国旗は,単に思想の自由市場において認知度を競う思想や視点のようなものではない。何百万人,何百万ものアメリカ人が,社会的,政治的,あるいは哲学的信念にかかわらず,ほとんど神秘的な崇敬の念を国旗に与えている。私は,修正第1条が,50州中48州が定める公然と国旗を燃やすことを犯罪と定める議会法を無効にすることには同意できない。)
さらに,リベラル派と目されていたスティーブンス判事も反対意見を述べます。
The value of the flag as a symbol cannot be measured. Even so, I have no doubt that the interest in preserving that value for the future is both significant and legitimate. Conceivably that value will be enhanced by the Court's conclusion that our national commitment to free expression is so strong that even the United States as ultimate guarantor of that freedom is without power to prohibit the desecration of its unique symbol. But I am unpersuaded. The creation of a federal right to post bulletin boards and graffiti on the Washington Monument might enlarge the market for free expression, but at a cost I would not pay. Similarly, in my considered judgment, sanctioning the public desecration of the flag will tarnish its value—both for those who cherish the ideas for which it waves and for those who desire to don the robes of martyrdom by burning it. That tarnish is not justified by the trivial burden on free expression occasioned by requiring that an available, alternative mode of expression including uttering words critical of the flag,…
(訳:象徴としての国旗の価値は計り知れない。その価値を将来にわたって守る利益が重要かつ正当であることに疑いの余地はない。表現の自由に対する我々の国の誓約は強力なものであり,自由の究極的な守護者である合衆国でさえ国旗という象徴への冒涜を禁止する力を有しないという法廷の決定は,表現の自由の価値をおそらく強めるだろう。しかし私は納得できない。ワシントンの記念碑に掲示板や落書きを投稿する権利を創設することは,表現の市場を拡大するかもしれないが,払いたくない代償を生じさせるだろう。同様に,私が思うに,国旗を公然冒涜することを認めると,国旗の価値(国旗を振るう思想を大切にする者にとっても国旗を燃やすことで殉教の衣をまといたい者にとっても)を汚すことになる。このような汚損は,国旗に対する批判的な発言を含む他の利用可能な代替的表現手法を要求することにより表現の自由に課されるわずかな負担によって正当化されはしない…。)
Respondent was prosecuted because of the method he chose to express his dissatisfaction with those policies.…Though the asset at stake in this case is intangible, given its unique value, the same interest supports a prohibition on the desecration of the American flag.
The ideas of liberty and equality have been an irresistible force in motivating leaders like Patrick Henry, Susan B. Anthony, and Abraham Lincoln, schoolteachers like Nathan Hale and Booker T. Washington, the Philippine Scouts who fought at Bataan, and the soldiers who scaled the bluff at Omaha Beach. If those ideas are worth fighting for—and our history demonstrates that they are—it cannot be true that the flag that uniquely symbolizes their power is not itself worthy of protection from unnecessary desecration.
(訳:被告人が起訴されたのは、彼がそれらの政策に対する不満を表現するために選んだ方法のためである。…この事件で問題となっている資産は無形のものであるが,その特有の価値を考慮すると,同様の利益が星条旗の冒涜の禁止を支持することになる。自由と平等という考えは、パトリック・ヘンリー、スーザン・B・アンソニー、エイブラハム・リンカーンのような指導者、ネイサン・ヘイルやブッカー・T・ワシントンのような学校の教師、バターンで戦ったフィリピンの斥候兵、オマハ・ビーチで断崖絶壁を登った兵士たちを強く駆り立てる力となってきた。もしこれらの考えが戦う価値のあるものであり、歴史がそれを証明しているのであれば、これらの価値を一意に象徴する国旗が,それ自体不必要な冒涜から保護される価値を有しないとするのは誤りである。)
6 ジョンソン事件判決のまとめ
このように,連邦最高裁は,僅差ではありましたが,表現の自由を優先させ,国旗を焼いたことによりジョンソン氏を処罰しようとしたテキサス州の判断を否定しました。もっとも,被告人側が主張していた法令違憲(法律自体を憲法に反するものとして無効とすること。)は認めず,ジョンソン氏の行為に州法を適用することに限り違憲であるという適用違憲の判断にとどめました。
その背景には,推論ですが,多数意見の側にすら存在した,国旗を毀損する行為への抑えがたい嫌悪感という価値観があった可能性があります。
他方で,政治的表現の自由の価値を守ることの重要性が,この嫌悪感を上回ったということなのでしょう。
「政府は,社会がそれ自体不快であるとか同意できない思想であるからといって,それを理由にその思想の表現を禁止してはならない」という考えを「bedrock principle」とした判決には強い感銘を受けます。
保守派と目されたスカリア判事が多数意見に与したのは,合衆国における「保守」の意味を考えさせるものだったのかもしれません。
逆に,リベラル派と目されていたスティーブンス判事が歴史的な星条旗の位置づけからその冒涜を禁止することにこそ価値があると主張したことは,アメリカにおけるLiberalismとPatriotismの関係をうかがわせるものかもしれません。
ジョンソン事件判決は,アメリカの保守層に大きな影響を与え,共和党政権は改正国旗保護法を制定して対抗しますが,同法は再び連邦最高裁の法廷で審理されることになりました。
長くなりましたので続きはまた。(→続きはこちら)