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雨乞い

芸術の本来性を追求すると、絶対はもちろん普遍性をも実は度外視している。

哲学や科学、数学、物理学、それらは絶対的な真理や究極の叡智を目指しているところがあるが、やっぱり芸術はそこだけを追求しているわけではないなと。さらに言えば、言語化出来ないもの、見えないもの、不可能性、そんなものたちすらも吹き飛んでしまう何か。宇宙的な本来性の海を、ただぷかぷかと遊泳する行為だと思ったんです、ふと。

そもそも芸術なんてものはなくて、ただただ生活があるだけですからね。でも、その生活のなかに芸術が包摂されているか、否かが問題なんですよ。

(小難しい概念やらは無意味に近いし、かといって生きる意味を自ら設定しない限り、虚無へ堕ちるのみ?
いやいや、虚無や絶望、孤独も、何も100%ネガティブなわけではないのですよ。結局そこにはその逆の有意義や希望、共生が包摂されていると思うのです。片方だけで、それそのものは成り立ちようがないじゃないですか。息を、吸って、吐く、のが呼吸ですから。どっちか片方では成り立たないですからね、当たり前ですけど。両極の考え方も、もう良い加減やめたいですね。ヴィクトール・フランクル氏からも大いに学びたいです。)

だから、出来ることといえば、せいぜい雨乞いをするくらいのものです。わたしの場合は。(写真を参照。恒星の2013年の「雨乞い」のパフォーマンス、栃木市油田味噌で行われたイベントにて。共演に、マンマリカとイリテナ。写真は星座を歩く カナ。)

雨を掌の器で、溜めようとする行為。
馬鹿みたいですかね?

指の間からスローモーションで砂粒へと変化し、時間も何もかも零れ落ちる行為。それがこの世界の有り様ですから、なにも悲観することはなく、ただただ受け入れる。目の前のことを面白がって、適当に、ほどほど中庸に、時に無我夢中になって、笑って死ねれば良いだけですから。

生活のなかで、些細なことに感動する無邪気な好奇心と発見する感受性、想像力ですよね。それが本来のいきいきとした生活=芸術を包摂した生活なんじゃないでしょうか。

ランボーの場合は、その過程を詩に落とし込んで、早々現実宇宙の海へと飛び込んだのでしょう。「永遠」で太陽と海が溶け合うように。わたしは現実にいながら、そこへすら飛び込むことが出来ないけれど、それもそれとしての宇宙があるのだからそれで良いじゃないですか。

突然ですが、あなたにとって最も尊いものは何ですか?

一昨日寝る前にまたふと思ったんですけど、最も尊いものは、「誰かの為につくる料理(作品)」だなぁと。どんな高級料亭や三つ星レストランでの食事よりも、かあちゃんが握った塩お結びには敵わないですからね。海苔がまいてあったらそらぁ格別です。

もう一つだけ、
例えば、子どもがいう一言のなかには、宇宙並みの真理=素直な気持ちが含まれているなぁと実感と感動なのですが、

「もう、7時だよ。半に行くんでしょ。」と言われて、その言葉の中には、《今日も朝から一緒に遊びたいけど、お仕事に行くんでしょ?早く帰ってきて一緒に遊んでよ!》ということが含まれているんだなぁと。

より良く生きる指針は、表には見えないとのを見ようとする「想像力」と「感動」だと心底感じた今日でした。

乱文お読みいただき、ありがとうございました。月夜に鴨長明の「方丈記」が身に沁み入るお年頃になってしまいました。

皆さんも良き1日を。

感代謝。


恒星
ありあるクリエーションズ
星座を歩く(アートクラス)

恒星のパフォーマンス・アート
「雨乞い」の写真は星座を歩く カナ撮影。

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