見出し画像

随想|詩が地平から飛び立つ瞬間

りりちゃんの手記

言葉が詩になる要素ってなんだろうと考えて、
それは平坦な言葉からの’離陸’だとしたら。

いただき女子りりちゃんの獄中手記をツイッタでよく読んでいる。
日記のような体裁で、食べたものや見えるもの、看守とのやりとりなどの
記録で始まっていることが多い。
時にだんだんとそれが内面に向かっていくにつれ
独特のエモーションが生まれて詩になって飛翔することがある。
これが彼女にしか書けない文章、胸に迫るみずみずしさで、
思わず涙が出てしまいそうになることもある。

今のところで一番好きな、シャンプーについての手記

彼女の文章力、言葉を操る力はある意味での特殊能力で、
独特のサービス精神で磨かれた、実地で身につけた文章力のように思う。
街の不良がストリートファイトで腕力を磨くみたいにして
研がれた文章力というか。
それが過度で誤用してしまった結果、
犯罪になったのは悲しい事実だけれど。
今彼女が被害者への償いのために執筆している本が出たら、
きっと、買って何度も読んでしまう気がしている。

切り取られた詩

親しい方々はご存知の通り、
わたしはツイ廃(ツイッタ廃人)なので
日々の思考をかなりツイッタに操られていて
正直なところ恥ずかしいのだけどやめられない。

二週間ほど前に、
谷川俊太郎さんのお名前がトレンドに上がった。
「ヒプノシスマイク」に過去の作品を提供したことと、
それに連なって投稿された、
谷川さんご本人が書かれた、ある書店の壁のサインについて……
というかサインに引用された詩についての批判が沸いて
奇妙な形で注目されていた。

サインについてのツイート

周りくどい説明をするより詩を読んでもらった方がいい。

この詩が女性蔑視だっていう、フェミニストの投稿。
わたしは驚いた。
あまりにも穿った読み方をしていて、見当違いだと思った。
でもその見当違いはどこか、この詩について話をしたくさせる。
ひとつひとつの言葉を確かめるように最後まで一緒に読んで、
お互いの解釈をおしゃべりしたくなる豊かさを持っている気がする。
これも詩の力だろう。

歌、じゃなくて詩

それとほぼ同時に、ミュージシャンの岡村靖幸さんが
自身の公判の際に法廷で朗読した詩もツイッタに流れてきた。

岡村靖幸さんが法廷で朗読した詩

世間に流通している
岡村さんのグラマラスで華やかな印象の歌詞とは違う、
素朴な手触りの詩。
アーティストの肩書きを外した、いち個人としての、
岡村さんの素顔に近いのかなと想像する。
一方でそれを法廷で朗読したのは、
作品として人前で読むことを選んだのは、
アーティストとして何十年も生きてきた
岡村さんの性(さが)だと思う。

歌じゃなくて、地の言葉でもなくて、詩だった意味。
地の言葉で語るにはあまりにもデリケートな部分だったんだろう。

不謹慎だけれど、その朗読を聴いてみたかった。


言葉が浮力を持つ

この三つのトピックが一日にどばっと流れてきて
頭の中がとても忙しい日があった。
それぞれのトピックが
普段わたしが詩について考えていることと繋がっているので
芋蔓式に過去の経験が出てきたり、
深く掘ってみたくなって忙しないのだった。

言葉が浮力を伴う≒詩としての力を持つ瞬間が
わたしは好きなんだろう。

こういう話をもっと誰かとしたいのになと
最終的には寂しくなるのだけれど。

長い文章は書き慣れていないので読みづらかったでしょう

本当なら今日は東京でいろんな人に会えるはずだったのに、
そして明日は大好きなバンドの毎年恒例のライブなのに、
体調が悪くて大阪の自宅にいます。
熱は出ていないんだけど昨晩あたりから
時折咳が止まらなくなってぜいぜい辛い。

いいなと思ったら応援しよう!