悩みは堂々巡り、そして今日も生きるのだ
自分の軸がしっかりしていて何ものにも揺らがない人間というのはいったいどれほどいるのだろう。
人生をまじまじと見つめ直す機会が今の私にはあって、迷いに迷って、ある時は自分を真っ暗な場所へ追いやったりもして悩んだ末に、とりあえず生きて、ゆっくりとでもいいから自分を整えていこうと思った矢先に、ちょっとした言葉に気持ちがぐらついたりする。
ぐらついてそこからまた不安が膨れ上がって、ああやっぱり生きていたくないな、いろんな道から逸れてしまったしもう戻り方がわからない、しんどい、などと思ったりして、この精神はなんて脆くて頼りないんだろうと嘆きたくなる。
このまま落ちていったらまたメンタルがぼろぼろになりかねない。そういう感覚が背後に忍び寄ってきている気がして、ぞわっとした。とりあえずあまり不安を抱えないようにして、そのためにやたら運動をしてみたり、癒しの音楽を流して眠りについたりした。
今の私を不安に駆り立てるものがいくつかある。
まずは仕事のこと。これまでの繋がりから仕事を紹介してもらえることになったが、非正規雇用となる。そして、体調面と今後の働き方についてヒアリングされる中で、私の中で不安が膨らんだ。本当にちゃんと働ける? またメンタルがおかしくなって、せっかく受け入れてもらえそうなのに信用を失ったらどうしよう? 収入面も大きく下がってしまう。でも、以前のように働けるようになるまで時間がかかりそう。考えると、途方もなく気分が沈んだ。
そして、お金のこと。休職、そして退職となって、貯金の大切さを思い知った。預金残高が減っていくのと比例して、私の中の不安の芽がむくむくと育ち、早く働かないと! と焦り始めた。蓄えは心の余裕と選択肢の幅に直結する。しみじみとそれを感じて、私は家計を改めて見直して、削減できるところがもっとあるはずだとテコ入れを始めた。
たとえば、固定費削減のために家賃がもう少し安いところに引っ越すのもひとつの選択だと考えた。だけどその一方で、そうすることで自分の中の大切な何かが擦り減るだろうことが容易に想像出来た。今住んでいる部屋も場所柄も街の雰囲気もとても気に入っているのだ。心地よい住処というものは、私の中で占める割合がとても大きい。ひとつふたつ最寄り駅を変えるだけで家賃は下がる。でも、ここにまだ居たいと思ってしまうのだ。設備が整っているわけでも、築浅なわけでもないけれど、周りに高い建物が少なくて見晴らしがよく、通りに出れば並木道が続いている。梅雨には紫陽花を、秋には銀杏並木を楽しめる。ちらほらとカフェがあり、駅には小さな本屋が入っている。アクセスもよく、私にとって、住み心地のいい場所なのだ。
そうなると、別の方法で削減なり収入を増やすなりするしかないのだが、はてさてどうしたものやら。
不安といえば、恋愛や結婚についてもたくさんある。将来のことを考えると、ミドルエイジに差し掛かった女性は覚悟がいるのかもしれないと思う。
家族をつくる覚悟。つくれないかもしれない覚悟。
私は結婚願望がそれほどなく、このまま一人で生きていく覚悟もそれなりにあったのだが、単純なことでそれが揺らいでしまった。そう、家族をつくりたいと思ってしまった。家族というものと縁を絶ってきた私が。たくさん、思い出したくもない記憶のある私が。生まれたことを親からずっと否定され続け、その時のことを思い出すだけで苦しくなり呼吸が浅くなってしまう、この私が。
浅田家!をアマプラでなんとなく観たのがきっかけだ。その直前まで、私は家計簿をつけていて、「一人でこれから生きてくのにどれだけ稼いだらいいか」「自分の面倒は自分で見れるように収入源を増やしたい」「一人なら世間体とか関係なく気ままに生きていけるな」などと考えていた。
でも、それがぐらぐらに揺らいでしまった。自分のことを受け入れてくれる人、一緒に過ごしたいと思える人、人生に寄り添ってくれる存在、そして支えたいと思う存在がいることへの羨望が姿を現したのだ。そうしてふっと我にかえる。家族をつくるにはまず相手が必要で、子供がほしい場合には、産める私が必要で……。この時点でうわぁ、と思った。それは、なんだかとてつもなく難しいことに思えてしまったからだ。私は私の現時点を自覚して、また将来に不安や諦念を募らせた。せっかくここまで自分を奮い立たせて、自身の軸を強化しようともがいてきたのに、なんでこうも私はぐらぐらしてしまうのだろう。格好悪いったらない。
この先、生きてていいことあるんだろうか。
そんな思いが湧き上がる。奮起しようとしても、些細なことで心が折れて、こんなんじゃだめだと自分で自分をどうにか励まし、体と心と頭をやっとのこと動かして。そんなことをこれからも繰り返すんだろうか。やってらんない。やってらんないけど、生きるってそういうことなのだ。しんどい。なんてしんどい作業が必要なのだ。
そういえば、楽観的な私がいたはずなのに、最近はずっと影を潜めている。早く戻ってきてほしい。生きてりゃその内いいことあるでしょ、これまでも何とかなってきたんだしって、今を楽しんでいた私がちょっと恋しい。
ここのところ天気がぐずついていて、洗濯物を溜め込んでしまっていた。今朝、晴れた空を見るなり一番に「洗濯しなきゃ!」と体が動いた。それから部屋に風を通して、音楽を流し、コーヒーを飲んだ。
果てしない悩みを巡らせ諦念を抱えている割には、私の体は心地よく暮らすために動き、生きるために食事を摂る。コーヒーとチョコパイの組み合わせに私の舌は喜び、脳みそが活字を求めるので読みかけの文庫本を手に取ったりした。そして、本の中に出てきた「サラダ・ニスワーズ」が気になり調べてみたりするのだ。(とてもおいしそうだった)
起きてもないことに不安を覚えていても仕方ない。私は自分の頬をぺちぺちと叩いて、どこにも何にも属していない今を楽しむ方向に意識を切り替えた。
無職生活も多分、あと少し。今のうちに本を読めるだけ読んで、できるだけ運動や食事に気をつけて、コンディションを整えておこう。仕事を紹介してもらうにあたって面談があるはずなので、病み上がり感を少しでも払拭しておきたく、少しでもいい印象を持ってもらえるように、身なりもちゃんとしておこうと考えをシフトする。
私の行く末にどうか幸がありますように。良いご縁に恵まれますように。
そんな希望を持っている私だから、きっとこれからどうにかこうにか奮闘するのではないだろうか。
思考がだだ漏れのこのnoteに、そんな日々をまたしたためていきたいと思う。