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誤解だらけの「教育の本当の価値」 | 学びは生涯と思う不動産屋

つぶしが利かない「普通科」の私

ずっと、日本の教育は社会に出てから役立つことをあまり教えないからけしからんと思ってきました。

特に私のように高卒(しかも普通科)が最終学歴のような者は、本当につぶしが利きません。おそらく二流とか三流なんて言われる大学の、文系の学科を卒業した人も同じようなものではないでしょうか。

そういう人たちはいわゆるブラック企業と呼ばれる劣悪な労働環境の会社(接客サービス業が多い)に大量採用されて、使い捨てにされがちな層でもあります。社会に出てから、それまで過ごしてきた“無駄な時間”を思い、うろたえることになるのです。

心豊かに生きるための学校教育という視点

ところが最近、野﨑昭弘『算数・数学24の真珠』(ちくま学芸文庫)という本を読んで、冒頭の「けしからん」という気持ちが少し変化しました。

著者は『「直接役に立つ知識でなければ、要らない」と思う人は,学校で勉強することの意味を誤解しています.』述べていて、学校で学ぶ理由は「日常生活で役に立つから」だけではなく、私たちが「心豊かに生きるため」という指摘には胸を突かれました。

同時に、それを教えてくれる小中高のとき、親なり教員なり、誰かそれを教えてくれる人が居たらどんなにその後の人生は違ったものになっただろうと、ないものねだりなことを思ってみたりしました。

ひょっとしたら、教えてくれた人が居たのかもしれませんが、当時の私にはそのメッセージを受け取る力が無かったということもあり得ます。いずれにしても過去を悔やんでも仕方ないです。

実践的であることと「見晴らしのよい展望台に通じるたくさんの道」

本書の中の、『特に円周率は,自分で直接使うチャンスはなくても,間接的には誰でもお世話になっているのです.』として、そういうことを全く知らないということは、『見晴らしのよい展望台に通じるたくさんの道が,すべて閉ざされてしまうことになります.』という箇所では、自分の狭量さを反省させられました。



社会に出るまでの学び(Z)=X(実践的な学び)×Y(心豊かに生きるための学び)

これからの学校教育というものが、このようにあってほしいと願います。

Xは手に職をつけるとか、金融教育とか労働者の権利とかそういうので、Yは国語・数学・理科・社会・英語等です。

自分の物差しで生きるためには

そして、いちばん若い人に知っていてほしいと思うのが「よりよく生きる」ということに、生い立ちや最終学歴は関係ないということです。

学歴は大切ではないというわけではありません。高卒の私が言うのも何ですが、あれば選択肢や視野が広がるはずです。チャンスと意欲があれば、学歴はゲットすべきでしょう。

私は若い頃、専門学校を中退するとき、その学校の偉いさんから「君なんて、うちを退学したらろくな人生を送れないよ。まあ、見た目が良いからホストとか水商売ならやれるのかな。」と嫌みを言われたものです。いま思えば、なんて視野の狭い、世間知らずで差別的な言い草なのでしょう。

中卒だからこんなものだ、一流大学卒だからこれくらいの人生を生きなければみっともないなどというような「他人の物差し」に左右されず、自分の人生を生きましょうよ。

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