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人生で死にかけた時の話をしようか。

本屋にありそうなタイトルですみません。
ふと文字にしときたいって思ったことがあり,久しぶりにnoteを開きました。

「なんで俺ってこんなに能力ないねん」って凹んだりするときってあったりしませんか?!

私は最近、そういう時に「いや、ご先祖さんや両親が、そんなふうに思っている自分がいたら,残念に思うだろうな」と思うようになり、「幸せな人生を過ごしてほしいって思っているはず」と想像し、「考えてみると、俺っていい人生過ごさせてもらってるやんー」「感謝感謝」と自分一人で変換でき、またプラス志向になれたりするんです。

50歳を迎えられていることも、結婚20年以上続いていることも、家族4人が元気にいることも、事業が11年続いていることも、とてもラッキーだし、ここまで奇跡の連続でしかないよな!って思えるんです。
歳のせい?!

そんなことを考えている中で、死んでてもおかしくなかった時があったことを思い出しまして…
2度死にかけたことを久しぶりに思い出しました。

子供たちにも話せていないし、奇跡をちゃんと残しておきたいと思い。
そして凹んだ時に、これも読むとさらに「俺ラッキーやん」ってテンション上がるはず⤴️
だから書いときます!

人生で死にかけた時が2度あります。

1)小学3年生で車に轢かれる


冬の寒い日でした。僕はそろばん塾にいました。
塾が終わり、外に出ると、珍しく雪が降ってきて。
友達と一緒にはしゃいだ記憶が。

塾の傍に神社があり、その境内を駆け回っていた。
境内と漁港を挟んで、一車線くらいの細いアスファルトの旧街道があるのですが、その旧街道上に思わず出てしまったとき、雪で濡れたアスファルトで足を滑らし転倒してしまいました。

尻もちをつき、仰向けになって、空を見上げた
瞬間、ドン!ドンと2回の大きな音。車が自分のお腹の上を通りすぎました。

車がしばらくして止まり。運転席からおばちゃんがでてきてこちらに向かっている。
何が起きたか理解できないまま。
映像はくっきり。でも息ができない。
そのような状態が結構長い時間続いたような。

そこからの記憶が途切れるのですが、次に覚えているのは、病院へ連れていこうとするおばちゃんに「今夜は大好きな叔母がくるので、どうしても家に帰りたい」と必死に伝えている自分。そして、とにかくお腹が痛いという状態だった。

おばちゃんは救急車を呼んだが、到着を待ちきれず
自分の車に僕を載せて、岩屋の国立病院へ。

そうして緊急で運ばれ、入院と検査の連続。その結果、なんと無傷。特にダメージを受けていないと!
念のため一週間様子をみるために入院し無事退院。
なんと一週間で日常生活に戻ったのでした!

ひかれたおばちゃんの車は軽自動車でしたが
4人乗っていました。そしてなんと私の同級生の
家族だったのです・・・同級生も乗っていました。
4人の総重量と車体重量に、なぜ耐えられたのか?

後で聞いたのですが、おばちゃんはノンブレーキだったそうで・・そのまま走り抜けたことがよかったのかもといわれました。
友達の証言で、前輪がお腹に当たったとき、車がウイリーしたといってましたので、なかなかのスピード・・それがよかった

その時に履いていたジャージのパンツの下腹部付近に、タイヤ痕がありました。下腹部に腸とか内臓がちょうどないスポットがあるそうで、ちょうどそのあたりを轢かれたこと、車の前輪と後輪が同じ付近を通過。ちょうど下腹部を片輪だけでひかれていたこともよかったっぽい。あー背が低くてよかった。

数か月後に、大便が細くなってしまったのではないかという疑いで、何度か母とポートアイランドの神戸市民病院まで、精密検査をしてもらいに通ったのも覚えている。それでも何の異常もなかった。

学校で、しばらくスーパーマンと呼ばれた。

おかんが、車に轢かれた第一報を聞いたとき。
その場で倒れ込んだそうです。今は親としてその気持ちがわかる。

自分の人生が続いてくれていて、本当にありがたい。
親より先に死なないこと。これは今も強く思っていること。

2)大学卒業直前に、名神高速で車が大破


就職まであと一か月弱。卒業式前だったと思う。
学生時代は和歌山で下宿してたんですが、入学早々に
原付を両親から買ってもらい過ごしていたのですが、
野球部に入部してから、リーグ戦や練習試合で頻繁に阪神間へ行くことになり、すぐに車が必要だと思った。

怒涛のアルバイト生活で、50万貯め込んで、中古で
軽自動車のスズキアルトを購入。そこから3年半は
アルトが相棒だった。

アルミホールも変え、スモークフィルムも貼って
アルトなのに、アルトの中で、なんとかかっこつけようとしてた笑。自分のお金で最初に買った車。とても大好きだった。

その愛車で、4回生卒業直前のころ、京都に遊びに行き夜、名神高速で和歌山までの帰路を気持ちよく走っていた。吹田ジャンクションが近づいてきたころだった。

バーン!という爆音とともに、車が数回転。
昔,枚方パークにあった,コーヒーカップでクルクル廻る乗り物みたいな感覚。回転しながら車線左のガードレールにぶつかり側道で車が止まった。最初地震が起きたのだと思った。

後ろから高速道路で確か130KMくらいの速度。ノンストップで追突されたのでした。

奇跡的に側道で止まった車の中で、気づいた事は
自分が助手席側にいてることだった。衝撃の瞬間、シートベルトで守られつつも僕は助手席に飛ばされ、助手席からなんとかハンドルを握っていた模様。
バーンという音と同時に、リアガラスだけでなくフロントガラスも割れて粉々に飛び散った。

アルトがチョロQのように小さくなっており、
後部座席とトランク部分がなくなっており、ぺちゃんこになり前の席のすぐ後ろまできていた。最後尾にあったスピーカーがすぐ耳の後ろまできてて、音量が大きく聞こえた。

追突した方が、すぐに来て、僕が生きていることに
ほっとされ、救急車を呼んでいた。

そこからしばらく記憶が飛んでいるが、吹田の高速道路の事務所のところで、警察官と話をした。
衝撃で座席で打撲した、ふくらはぎに痛みがあった以外は、元気だった。友達に連絡をして、迎えにきてもらった。事故車をみた友達が、よー生きてたなってびっくりしていた。愛車が身代わりになってくれたのかと…

追突が、真後ろからまっすぐだったこと。斜めや角に当たれば、反対車線に飛んでしまったかもしれないといわれた。後輪が2つともきれいに真横をむいていた。

くるくる回転したあと側道に偶然止まったこともよかった。後続の車に衝突されずに済んだこと。

追突してきたのは、ある会社の役員さんだった。
居眠り運転で衝突して目が覚めたそう。酒気帯びの疑い。でも当時だったからだろうか、、、警察官から僕がどうしたいか、聞かれた。
車を失うと生活できない。病院で検査して問題なければ、とにかく急ぎで車が欲しいと。
当時、社会人になったら、すぐに乗りたいと思っていた車があった・・・

トヨタカローラ「レビン」

廃車になったアルトはおそらく、価値としてはもう数万円程度にしか、ならなかったと思う。
思い切って、示談で、レビンが欲しいと伝えた。

そうして僕は、社会人になった4月末。
憧れのレビンに乗る事になった。
新卒で入社した会社の寮が香里園にありそこから伏見の京都支店まで、結構距離があるのですが、、、早々に「レビン通勤」となった。
しばらく、友人から、当たり屋と呼ばれた。

もし怪我によっては入社できていないかも知れず,人生はきっと変わっていた。後遺症もなく、元気に社会人をスタートすることに。

ただ一つだけ、事故のトラウマがあった。
当時、ドライブでよく聴いていた大黒摩季のアルバム。事故した瞬間、最後部につけていたスピーカーが耳の傍まできて大音量で流れていた曲「ららら」

これはしばらく聞けなかった。
「ららら~やっぱり~♪」

あ、そうそうレビン、
オートマ やけどね🤣

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