見出し画像

平凡な30代会社員が、刺激の強い40代を過ごした話をしようか。ちょっと長いで🤏

ミドル世代のリノベーション

大好きだった番組がある。リフォームの匠が、依頼主の難しい要望を聞き、想像を絶する劇的な住まいのリノベーションを叶えるやつ。元々住宅設備業界にいたので、きっとその血が騒ぐんです笑。「なんということでしょう♪」 依頼主が「え!ほんとに自分の家なの!?」て涙目になる瞬間がええんです〜

今年50歳になったのですが、振り返ると、自分の40代は、30代までの会社員時代からは、想像もしていなかった10年を過ごしまして。これはミドル世代版のビフォーアフターではないかと思ったわけです。

私自身のことを少し前置きすると、、、
転職支援事業、転職エージェントとして、会社員として13年、直近は事業主として11年従事しており、30代後半~40代のビジネスパーソンのミドル世代の相談に乗っている。

40代になるとキャリアの選択肢が限られてきたり、夫婦関係、子育て、介護など家庭事情や環境変化で、プライベートの悩み事も含んだ相談をよく受ける。また30代のビジネスマン,ビジネスウーマンにも悩める人が多い。結婚などのライフイベントで価値観が変化したり。今の会社、仕事で、役割で、このままでいいのかと悶々としていたりする。相談者に共通しているのは、「今のままでもいいけど、どうせなら公私ともにもっと挑戦したい」

私はこの30代後半の葛藤,数年の悶々を経験している一人としても、ついつい共感してしまうのです。そして思うのです。

「迷ったら、具体的に動いてみるべきじゃない!?」

私は20代後半から30代を、リクルートという世の中では特殊な方の会社で過ごしたので、周りの方や後輩には、若くして会社を飛び出して、経営者として大躍進を遂げている方々もいて凄い人ばかり。僕はそんな方々には到底及ばず、華麗なストーリーではない。僕は真面目で堅実な会社員タイプだったと思うし、もの凄い情熱や野心、ビジョンを持っていたかと言われると、公私バランスよく両立し、家族がハッピーで暮らせたらいい、ということが真っ先にあるタイプ。

だけど、そんな僕のようなタイプだからこそ、悩める30代40代に届けられる話があるのではないかと思ったわけです。私が経験した10年前の40歳と、今の40歳を比べても、さらにもっと簡単に気軽に一歩踏み出せて、劇的変化が可能な世の中だと思うのです。

そんなわけで、私の40代リノベーション体験記を
「話しをしようか」シリーズに載せて書いてみることにします。シリーズいうても2個目やけど!

30代会社員時代

リクルートエージェント時代。支社閉鎖が決まり、何かを残したく、OBまでも招待しての大阪南支社5周年会開催。
支社長最後の大仕事だった。

僕の30代後半は、前職の、大阪難波にある大阪南支社で支社長をさせて頂いた。27歳で転職組で入社したリクルートエイブリック(今はリクルートエージェントか・・又はもっと社名変わっている)入社した2000年はインターネットが普及し始めた頃。転職サービスが、雑誌媒体からリクナビ・リクナビネクストなどネットサービスに変わりつつあった。「何でもインターネットになっていくよね」なんて言われてたタイミング。でも僕が入社したリクルートの子会社は、欧米で主流になっていた「エージェント・代理人を介して転職する」時代が来ると考えられて、人が介在して企業と個人を繋ぐサービスの立ち上げ時期だった。インターネットサービスよりも、僕はこの「仲人の縁結び」にワクワクして飛び込んだのだった。

入社から7年法人営業。尊敬する上司や先輩、環境に恵まれ、夢中で仕事をした。社会人で、それまで営業実績で圧倒的な結果を出した事がなかった僕が、人材紹介という仕事は肌に合ったのだろう。若くしてマネジャー、支社長と駆け上がる。会社の急成長とともにありがたい役割に就いていった。中四国エリアの支社長を2年半、その後大阪南支社長を4年務めさせてもらった。20名ほどの支社で、顧客・現場にも近く、メンバーとも近い、経営や部長とも直接繋がれている支社長。当時とてもやりがいがあって、自分の理想に近い役割だと感じていた。「マネジャー以上・部長未満」という、若いメンバーと現場にもいくし、お客様、経営者にも直接会えるし、社内の管理職会議にも出られる絶妙なポジショニング。

しかしそのやりがいは長くは続かない。会社はさらに一段と成長曲線に。入社当時数百人だった会社が4000人に。リクルート本体との合併。支社長の廃止。会社は上のステージへ上がろうとして、組織や事業の戦略が変わりつつあった。そのあたりからだろう。その先で自分がどんなふうに活躍できるのか、不安もよぎるように。

大阪南支社を大阪支社(梅田)に集約する方向に。支社の閉鎖が決まったときに、自分の中に燃え続ける火の一つが消えたような感覚。きっとマネジャー以上での異動話はあったと思うけど、そこから会社の中で自分が躍動するイメージがもてなくなってしまった。38歳だった。俺40代どうするねん・・全く見通しがつかなくなってしまった・・・焦りまくった。

当時、リクルートの中でFA(フリーエージェント)制度があり、他部署の募集に上司を介することなく応募できる機会があった。それまでFAに興味なんて持ったことがなかった僕は必死だった。インドの人材紹介立ち上げマネジャーの求人が目に入る。現場とメンバーに近く、市場開拓や経営マネジメントにも、がむしゃらにできそうな気がして。海外事業の役員に話を聞きにいったりした。だけど英語が全くできないのが致命傷に・・(Oh no)

そうして社内に次の道を見い出せないでいた頃。リクルートのOBの方々が立ち上げていた転職支援会社の経営陣の方と接する機会があり。僕からオフィスの見学を申し出た。何度かお会いしたのちに、一緒にやらないかとお声をかけてくださった。大阪で社長をやらないかと。経営ボードの皆さんと食事もして、前向きに考えていた。そんなありがたい話は滅多にない。この時、13年間お世話にになったリクルートから遂に飛び出す事を決意する。

しかし退職を決意したあとに、ありがたい縁談を破談にしてしまう・・
話を進めていく中で違和感がでてきた。参画する会社の経営陣の方々が築いたリソースを使わせてもらい、そのグループのルール、方針に沿って、大阪の責任者をするということになるのではと。それって自分が退職してまでやりたかった事なのか・・・むちゃくちゃ悩んだ。そうして一度握手をしながら不義理な事をしてしまった。ご辞退させて頂いたのです。

そうして・・「もう自分がオーナーでやるしかない!」腹が決まったのです。退職日、最終出社日の、わずが2週間前の出来事でした・・(苦)
一瞬路頭に迷い、突如道が決まった感じ。

後輩や同僚から、「びっくりしました」「独立なんて憧れます」って声かけてくれたりしてたけど、あの時は血が通っていない顔をしてたはず。「俺、ほんまに大丈夫か」ソワソワしてました。7月末退職。8月6日に株式会社ファイブセンスを創業した。有料職業紹介事業の免許を取得し、一人で転職支援事業を運営することに。39歳の夏だった。

もがき始めて2年弱。社内異動→社外人脈→退職決意→起業という考えの変化。新築を建てて2年。ほぼ住宅ローン(爆)。妻と小学生と幼稚園児2人の子ども抱えて。大した準備もしていないまま飛び出す事が決まった・・
俺はつくづくアホだなと思った。

でも振り返れば、このくらいの展開にならなければ、決断できていなかったのかも。悩みもがいた時間が尊い。リクルートでは海外責任者に会いに行って自分の現在地を知った事、リクルートOBの会社さんの縁談があったからこそ気づけた自分の奥底に隠れていたWill。悩むだけで終わらず、自分で動いた事で、起こせた偶然ではないかと。

「迷い悩むくらいなら、動くとよい」と思う理由である。

リクルートOBの会社さんには今も感謝してて、ご活躍も遠くから拝見している。そしてあの出来事は、事業や仕事は我が事でやる!という自分の不変のポリシーに繋がり、今も踏ん張り続けられるエネルギーになっている。

大阪・堺筋本町にて2013年8月開業初日。
駆け回る子供たちと不安いっぱいの自分(笑)

劇的40代のはじまり

起業から初年度は必死のパッチ。なんとか立ち上がり奇跡的に2年目から仕事が回りはじめた。そんな2年目の後半に、妻から相談があった。

「家族で留学せーへん?」
妻は徳島出身。幼い頃に阿波踊りで選抜され、海外公演に行く機会が何度かあったようです。そこから徐々に海外に興味が湧き、進学も外国語系の学校へ。留学へのあこがれがあったが、当時は両親の反対で留学できなかった模様。社会人になると独身時代は一人でイタリアを旅行したりと。一年に一回は海外に行ってないと落ち着かないみたいな。そんな妻は、自分の子供と親子で留学できたらいいな!という気持ちをずっと持っていたよう。

当初は子供たちと妻だけで2週間くらい、セブ島にいこうと考えていたようでしたが、私が独立したので 「あ!そしたら家族でいけるやん!」「パパも一緒にきて、どうせなら長い期間いこうよ」「現地で仕事したらいいやん」と超アクティブな提案が・・・なんちゅうことを考えるねんと思った。見積り金額を見て驚愕。「これは我が家の、子供たちへの最大の投資である」と。妻の話を聞くうちに僕も、後先を考えず前向きになった。

そうして、ニュージーランドに家族4人での2ヵ月親子留学を決断。2014年5月から、小4息子、小1娘は、オークランド郊外にある公立の小学校へ。妻はオークランド都市部にある英語学校へ。僕は朝夕に子供たちの送迎。日中の合間に仕事をするという家族留学がスタートした。

 ※家族留学の体験記も子供たちの様子も含めて
  noteに書いているので、よければそちらで~
  家族留学のお世話もさせていただいています↓

家族留学は、子供たちや妻の為ではあったけれど、一緒についていった41歳オヤジが一番刺激をもらったのではないか。

初日こそ妻が学校の送迎についてきてくれたが、2日目から父のみで送迎し、最初の数日はパニック。迎えにいくと娘は泣いて教室から出てくるし(言葉わからず友達がいない、小1になったばかり)今日の様子や連絡事項を担任の先生が話してくれるのですが、、、さっぱりわからない。

そんな僕が、2週目からは、順応した子供たちに、連絡事項をしっかり確認させて、朝は送迎後、趣味のランニング。郊外の学校からから市内まで走り、その後仕事して、カフェ開拓して、学校にお迎えにいった帰りは、調べてた公園も新規開拓。パン屋でおやつを買って、たらふく遊ばせて、帰れるまでに。南半球での非日常をすっかり堪能し始めた。

ニュージーランドにもフルマラソンがある事を知り、ランニング熱も復活。夢が膨らんだ。そしてありがたい事に、御世話になった留学エージェントさんと、留学の仕事をご一緒できることになった。転職エージェントの我が社、ファイブセンスに留学エージェントという、新たなメニューが誕生した。

「オークランドマラソンに一人で出場してみるわ」
家族留学から帰国して1年後、43歳にて初めての一人での海外渡航。留学の仕事も兼ね合わせて、一週間一人でニュージランドへ行く事になった。マラソンの受付で、全く言葉が聞き取れない中で、なんとか雰囲気で受付を済ませる度胸もついた。テンション高いままゴールして、念願のサブ4をNZで達成する。フルマラソン完走後には新婚旅行でいった以来の南島へ、国内線で飛び、レンタカーを借りて、数泊延泊もした。

※2016年、興奮して書いてたFacebook残ってた。

海外一人旅が、本当に刺激的だった。
僕の性格は社交的な方ではあるけれど、自分からガンガンいけるタイプではないところがあって。だけど一人で異国に行けるようになった事で、今までにない自分がでてきた。

一番象徴的なのが、NZ南島のワナカという小さな町で、一人でいったBARでの出来事。そこでフランスからきた2人組の男性に、思い切って自分から話して、相席をお願いしてみた。仲良くなり、2時間くらい一緒に飲んだこと。僕のために英語で話してくれた。「日本人は働き過ぎだ…俺らは一か月のバケーション中だよ」 仕事、子供たち、夫婦のこと、いろんな話で盛り上がった。

なんと同世代だった、ジェームズとギオン @ ワナカ

踏み出せば踏み出すほど、新しい出逢いと体験がある。良い意味で自分のリミッターが外れたような感覚があった。それが43歳の秋。

家族もさらにリミッターが外れていく(笑)下の娘は妻とその後も3年連続2ヶ月間、親子でニュージーランドに留学し続ける。そして現地で世界で活躍するニュージーランドのダンサー、Parris Goebelが手掛けるジュニアチーム「Bubble Gum」オーディションに合格する。唯一の外国人で最年少での加入だった。母娘の合格発表の日の涙を今も忘れない。妻の名言「これは我が家の最大の投資である」が再び飛び出す事に(驚)母娘で1年間ニュージーランドで活動する決断をする。

2018年1月から約1年間、Bubble Gumとして、ニュージーランドだけでなく、世界大会にも出場するチームのため、ニュージーランドから今度は世界に渡航することもある。夜遅くまでのハードなトレーニングのサポートや渡航費や活動費を賄うために現地で保護者としてファンドレイジングもしないといけない。

行くのは母娘だが、父として夫としても、なかなかの決断だった。2018年1月は長男の中学受験も重なっていた。もし中学に受かったとしても、母娘がいない中で、中学生になったばかりの息子を、父が手厚くサポートできない。息子が入学する中高一貫校に、学生寮があった。当時通学できる学生は入寮できなかったが、なんとか妻が入学説明会で、先生を捕まえて頼み込んで。申請までこぎつけて、父息子で入寮面接へ。特例で入寮させて頂く事に。これはほんと奇跡だった。

こうして2018年の我が家は、3拠点(父自宅・息子学生寮・母娘NZ)で暮らすことに・・・あの1年は、3箇所の家賃だけで毎月40万近く支払っていた(驚)
後先考えず。「今が我が家の最大の投資である」と言い聞かせながら・・

妻はNZで免許も取得し現地で車購入。日産NOTE。
ナンバープレートを「足はくよ」で子供に覚えさせた笑

そして1年間 bubble gum で活動した母娘は、逞ましくなった。娘はNZの公立小学校に通いながら、学校が終わると、母と日本の学校の勉強、夕方から夜遅くまでbubble gumの活動。僕は息子と一緒に夏休みに一度逢いに行ったが、すっかり現地の皆様と母娘が絆を作っていて、凄いなって思った。チームは、ニュージーランド大会で優勝し、NZ代表として2018年8月にLAで開かれた世界大会に出場を果たし、ファイナリストまで残った。僕は実家でネット中継を観ながら気合いが入った娘をみてウルっときた。小学4年生でNZ代表でLAにいくなんて、踏み出してみなければ、なかった世界。娘は最後日本に帰りたくないと言っていた。チームメイトとの別れの瞬間も、本当に泣けた。

上の列の右から2番目の小さい娘
Team bubble gum 2018

45歳でサハラ砂漠マラソンへ

グローバルに踏み出した我が家。家族のおかげで、遅ればせながら40歳を超えてリミッターが外れた父は、さらに勢いを増していく。

NZでサブ4を達成した私は、暇があれば、世界中のマラソン大会をネットで調べたりyoutubeで観たりするようになる。そんな中でビビッとくるものと出逢ってしまう。

「Marathon des Sables 」
アフリカ、モロッコで開催される、サハラ砂漠を約一週間で250km走るステージレース。世界で最も過酷なマラソンといわれていると。
1週間分の食料や寝袋を背負ったままで。夜も走るオーバーナイトステージも含まれている。動画をみて、うわ~っヤバイ。サブイボがたった。当時は、サハラマラソンの記事や動画がそれほどなかったのですが(今は沢山ある)完走者のブログや動画は漁るように探した。

心が動くサハラマラソンの本もいくつか読んだ。リタイヤ理由の多いのが熱中症と遭難💦正午の気温が40℃以上!先にゴールしたランナー大勢が痛い脚を引きずってゾンビのように歩き出し、ラストのゴール者を出迎える。参加者の絆もヤバイ・・・

レースエントリー費だけで日本円にして50万くらい(驚)渡航費やレース前後フランス滞在費用など諸々入れると総額ざっと100万円。

ついに、嫁さんに打ち明けてみた。反応は・・・
「めちゃイイやん!」「てか私も行こうかな」
どんな家や!砂漠やで(笑)
僕がリミッターが外れて、どんどん挑戦するということをとても喜んでくれた。

翌年2018年は、母娘のNZ挑戦の構想が動き出していたし、息子が中学受験の年。やりくりを考えると2019年の挑戦が現実的。こうして2年越しの大目標が動き出した。

最高に辛いレースで最高の涙を流してみたい。
その先に待っている景色を見てみたい。

周囲に「サハラマラソン行こうと思ってるねん」て話し始めてみると、友人に完走した子いるで!とかって紹介頂くことに発展。NPO法人を経営されてる今井さんを紹介頂き、サハラマラソン完走報告会へ。感動秘話とともに、サハラマラソン完走者や出場予定者のコミュニティを紹介頂き、練習会に参加するようになる。また大学の総務で働く友人から、学生でちょうどサハラ完走した子がいるよと、教えて頂き、特別に大学で当時学生さんだった川中さんに取材させてもらえることに!サハラマラソンの繋がりがありがたい事にどんどん出来、沢山の情報が集まった。

川中さんから、ありがたいレース対策の資料を見せてもらう。荷物や食糧リスト。一日2000kcal×7日分の食糧をバックパックにいれないといけないので、軽量のものや、エネルギー量が多く暑くても食べやすいものを準備されていた。背中に岩10kgいれて毎日20km山登りをしていたとか…自分が知るマラソンの世界ではないと。ワクワクと不安が。

食糧選びも、スポーツ店に通っては、色々買って、ランニング途中に食べてみたりした。砂漠で固形燃料で湯を沸かし朝と晩ご飯をたべることを想定して河川敷や山の中で実際に作って食べたりして、道具を使うことに慣れておく。そんなこんなで装備や道具、食糧を決めていった。

背中に背負う荷物、12kgくらい
砂漠7日分の朝昼晩の食事、カロリーを維持しつつどれだけコンパクトに抑えられるか。

ナイスミドルプロジェクト発足

前職の後輩が、私と一緒に出場したいと。マラソンもランニングもしていないのに。その彼の名はデビ(デビット伊東似から…)。前職でそこまで親しくはしていなかった彼。一緒に過酷なレースに出るということは全く想像できないゾーンの後輩からのオファー(笑)

デビも前職会社を辞めて転職エージェント業を起業していたが、色々と彷徨っている様子があった。東京から博多まで単独で歩いて帰る企画をしており、その様子をSNSでみている中で、面白いやつだなと改めて思っていた。そんな中で大阪を通過するときに、彼から連絡をくれて、前職同僚と共に、彼の旅を応援すべく会ったのでした。

デビの東京から大阪までの道のりの話に、ちょっと心打たれ、自分がサハラマラソンに挑戦しようと思っていることを初めてカミングアウトしたのです。

デビ「是非一緒にいかせてください」
岩ちゃん「応援団させてください」
プロジェクトが誕生した瞬間でした

ナイスミドル応援団誕生
まだコハデビは今よりふっくらしてる笑

この大冒険の話題で、4人ともに前向きな気持ちに。ただ挑戦するだけでじゃなく、いろんな人にも盛り上がってもらえたらとか、ミドル世代の挑戦を応援する応援団をはじめようとか。そうして「ナイスミドル応援団」という謎のチームをつくり、同世代にきてもらえるイベントをしようとか。いろんなアイデアが膨らんだ。

ここからの2年は本当に、仕事の合間にトレーニングや準備・ナイスミドルプロジェクトを組み合わせた生活。途中1年は妻と娘がNZ、息子は中学の寮生活だったので、本家なのに父一人暮らし。逆単身赴任のような。だから走っているか、仕事してるかだけの生活をひたすら・・・

デビと年間計画を立てて、本番を想定したバックパックや荷物を背負って国内のいろんなマラソン大会に出場した。夏には合宿をして、砂に慣れる意味で、鳥取砂丘に深夜入り、朝までいったりきたり30km進む練習したり。
僕は練習に組み込んだ、100kmウルトラマラソンも初完走。本番の一か月前には、京都駅から有馬温泉まで深夜に走るサハラマラソン練習会。

そして支援頂ける方も増えていく。前職の後輩だった竹野君との再会で、ステーショナリーメーカーのハイタイドさんからナイスミドル企画やサハラマラソン挑戦をサポート頂けることに(感謝感謝)
応援団長を務めてくれる岩ちゃんが、盛大な応援プロジェクトを全国に広げてくれて、大阪だけでなく東京・福岡でもサハラ応援イベントが開催。個人法人問わず新しい出逢いを頂き、そして協賛も頂き続け、なんと本番で使うユニフォームの背中が、ロゴでいっぱいに。こんなありがたい事はない。

もう2人だけの挑戦ではなくなった。

ハイタイドデザインのTシャツと夜用のパーカーで出場
沢山の法人個人からご支援に感謝

僕たちの挑戦やミドル世代の挑戦話を通じて、周囲のミドル世代を元気にするというイベント「オモシロクしゃべらナイト」もレース本番までに大阪・福岡で開催。また東京でも僕たちの挑戦をプレゼンさせて頂くイベントにも参加。レース2ヵ月前には、帰国した妻も、プロジェクトメンバーに加わってくれた。妻はNZで娘のダンスチームでのクラファン経験が活きて、応援してくれる方に喜んでもらいながら支援もしてもらう企画を持ち込んでくれて、応援Tシャツの販売や、記憶に残る大壮行会を開いてくれた。これほどまでに色んな方に応援してもらって出場するマラソン大会は、もうきっとないだろう。

そうして2019年4月アフリカ、モロッコで、2年越しの目標だったサハラマラソン250kmを完走する。45歳にして、忘れる事のない体験ができた。

当初は一人で挑戦しようと考えていた。打ち明けてみればデビが加わり、2人での挑戦に。そして応援してくれる仲間や家族のおかげで大プロジェクトになった。自分の夢の実現だけではなく、デビの涙が嬉しかった。

250km完走直後の一枚
開催してくれた大壮行会
帰国したら関空でサプライズが(嬉)

僕はそれまでクラファンや寄付というものにあまり関心がもてなかったが、自分が応援される側で体験したことで、応援や励ましが、どれだけ嬉しいものかがわかり、自分の考えやアクションも変わった。人は誰かから気にかけてもらえることで、大きなエネルギーを生み出せる。自分の考え方にも影響を受けた出来事だった。

※レースの様子は、動画やnoteに別途まとめています。よければ、そちらで~

Kohhaaa【 Tony 】 on Instagram: "サハラ砂漠マラソン250km🐫 コハ&デビで挑んだ 自給自足の7日間レース🏃‍♂️ 先日久々にサハラ体験を話す機会に恵まれ、 改めて尊いものであると記憶が上書きされ。 ピン留め保存用に📌 世界中から集まった1000人ほどの リスペクトするランナーの皆様との モロッコの砂漠旅🇲🇦 日中40℃で夜は6-7℃ レース中に砂嵐で喉がやられ、 夜は寝袋から出している顔に 砂が積もる。 試食したはずの補給食が 暑くて喉通らずハンガーノック。 アルファ米は砂が混じったまま流し込む それでも終わってみたら ナイトステージに見た星空や 辛かった砂漠が恋しくなる不思議😉 憧れのレース創設者パトリックさんに メダルをかけてもらえるまで ステージ1〜5までのダイジェストを たった90秒で🫡 サハラマラソンnoteマガジンで 行く準備から全レースの体験記まで残してます〜 興味ある方はプロフィールのnoteからどうぞ🫡 #サハラマラソン #自給自足 #250km7日間ステージレース #marathondessables #サハラ砂漠 #砂漠 #マラソン #ステージレース #コハデビ #レース創始者 #パトリックバウワーさん #musicby #三浦大知" 96 likes, 4 comments - kohhaaa on December 10, 2024: "サハラ砂漠マラ www.instagram.com

世界で最も過酷と謳われていたので、45歳サハラマラソンをマラソン人生の集大成に設定をしていたが。現地であった日本人出場者の皆さんがもっと凄いレースに出ている人だらけで…(驚)モンブランの周辺の山々を走る100マイルレースとか、世界中の砂漠や南極レースまで。外れたと思っていた自分のリミッターが、ほんの小さな出来事だったという印象に変わる(笑)集大成のはずが、まだまだ始まりに過ぎなかった・・・

私は、サハラマラソンの後は、山を走るトレイルランにハマっており、日本各地のレースに出場中。49歳で初100マイルレースも完走。今度は海外の山のレースに興味が湧き始めており、まだまだ50代も走りそうだ。

ミドル世代専門エージェント

さて仕事の方は、39歳で起業し11年が経過。順調とは決して言えないが、上述の経験と両立させながら、なんとか走れている。創業当時から変わっていないことは、ビジョンや理念を大切にする中小企業の経営者に伴走して、人的課題に応え続ける事。特に中小企業で中核を担う人材の採用や育成は、創業当時も今も、システムやAIではカバーしきれないと考えている。

大手企業のように経営戦略・環境・仕組み・福利厚生が整っているわけではなく、オーナーの力量やセンスで事業が成長し、マネジメントシステムができていない中で、その仕組みから創る事を期待される。オーナーのビジョンや人柄に共感できる、事業や風土に絶妙に相性のよい人材を探さないといけない。基本的に「そんな人おらんでしょ」からスタートする求人ばかり。そのポジションに僕はこの11年、ビビッとくる方を五感を駆使して探しては、針の穴に糸を通すように縁結びしてきた。そこに職人技の僕がやる価値があると思って続けてきて。気がつけば累計でご成約が190名を超えた。

なぜ一人で続けられているのか?お付き合いしている同世代の経営者が大好きなんだろうなと思う。創業時から同世代だった経営者が多く、10年以上のお付き合いを経て、皆様、50歳前後になられている人が多い。その経営者の方々が60歳くらいまでは社長をされているだろうと想定してて、僕も伴走して、もう10年、60歳くらいまでは、今の事業でしっかり人と組織のご支援ができたらいいなと考えている。経営者支援が一番やりたいことは今も不変。

ところが40代後半に入り、新しい気付きがある。私の30代の葛藤や40代での踏み出した挑戦に共感して、ミドル世代からの問い合わせが増えた事。

転職希望者との出会いは、私から可能性がありそうな方に、経営者から預かっている求人を提携サイトのスカウトメールに載せて、届ける事で、関心をもってくれた方とお会いする事ができる。ところが近年、求人ではなく、私の公私での葛藤や管理職時代の苦悩、人生決断の話に興味があり、ご連絡頂ける方の相談が相次ぐように。

・大手企業課長→部長に進むこともできるが退職して別の道へ進む事も検討
・がむしゃらに仕事をしてきた→子供・家族と両立させたい
・WEBマーケティング課長→中小企業での経営参謀か、独立の道で悩む

つまり求人閲覧や転職の前に、私の経歴や体験を知り、ミドル世代の壁打ち相手として期待されている事が増えたのです。そして、そういう壁打ちできる相手が社内や友人にはいらっしゃない事が多く、家族や上司にはまだ話せるタイミングではないというケースがとても多いのです。

そうしてある日、こんな事をいわれたのです。
「小濱さん、有料で相談だけお願いすることはできますか?」無料だと、何度も御時間もらうのに、気を使ってしまう。本当はもっと話したいから。

そうして初めて個人向けのサービスを創ったのです。

僕にとっても、これはよかった。お金を頂いて面談することで、こちらも真剣に、その時間をなんとか有意義な機会にしてほしいという気持ちになり、より一層気合が入るのです。私自身も緊張感がある面談タイムなのです。

2019年に立ち上げてから、様々な相談を受けています。自己分析というフレームワークはあるのですが、ほぼ個人の方が僕に相談したい事で時間を占めます。キャリア相談もあるけれど、パワハラ上司のかわし方とか、奥様との関係構築、お子さんも受験、育児の事などもあります。半年近く壁打ち面談していた30代の素敵な男性が、相談当時から、もしかしたら、この社長とご縁があるだろうと予感していた会社さんに、最終ご縁ができ、1年後に入社していくといったこともありました。すっかり身内のように親しみある方が巣立っていくような。私もいつもの転職支援にはない感情が生まれている。

経営者に尽くしたいと考えていた自分、個人からはお金を頂く仕事をしないと強く思っていた自分には、想定外な展開に。今は経営者支援に続き、「ミドル世代のために」を強く志す気持ちも芽生えている。

劇的50代を経て、ナイスシニアへ

ある一人のオヤジの40代リノベーションはいかがでしたでしょうか?全て30代には想定していなかった未来です。

ミドル世代の方々の代表的な転職理由に「先が見えてしまった」というのがある。先が見えていない方へ踏み出せば、苦労しつつも、偶発的に想定外な出逢いや出来事によって、思いもつかなかった未来がつくられるのではないでしょうか?

さて50歳を迎えている今、また次の10年のことを日々よく考えている。子供たちが大学生、高校生となり、夫婦や自分だけの時間が増えたこともあるし、さすがに心身の変化もある。

男性の更年期障害が(驚)・・・テストステロンが低下していたみたいで漢方薬を処方してもらいました。男性の更年期障害は近年増えているそうで、55歳~60歳が多く、自営業の方は50歳くらいから多いそうで・・・

運動量は同年代と比較して、し過ぎている方だそうで(笑)負荷かけすぎ?!40代とは違った、心身の変化にも向き合う50代になるのでしょう。。今そんな冷静になった上で、また新しい10年のスタート地点にいてます。

「迷い悩むくらいなら、動くとよい」
「やってみようと思ったときが旬」

50代も、40代には想像していなかった未来をつくれたらいいな!そしてまた60歳に、50代のリノベーションをnoteに綴れる日を楽しみにしながら。

(参考) 40代劇的アフターに繋がった文献
私が40代に刺激を受けた本を紹介して終わりにしたいと思います。偏りがすごいけど(笑)
ではまた〜

いいなと思ったら応援しよう!