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文学とは「送りバント」である―作家・山野辺太郎のこと

 新作がでるたびに、かならず初出の文芸誌を買っている作家がいます。わたしがその活動をリアルタイムで追いかけているゆいいつの現代作家、それが山野辺太郎です。

 先週刊行された「文學界」の7月号に、最新作「恐竜時代が終わらない」が掲載されています。今日は、いつもよりすこしだけ長めの字数で、まことに勝手ながら、作家・山野辺太郎の紹介をしようとおもいます(途中、作品のネタバレを含む可能性があります)。

 山野辺太郎は、2018年に第55回の文藝賞を受賞してデビューしました。デビュー作は、「いつか深い穴に落ちるまで」(「文藝」2018冬)。

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 その後、第2作「孤島の飛来人」(「文藝」2019冬)、第3作「こんとんの居場所」(「小説トリッパー」2020秋)、そして、最新作「恐竜時代が終わらない」(「文學界」2021/7)と、1年に1作ていどのペースで小説を発表しつづけています。

 これまでに発表された小説にまず共通していえること。それは、ストーリーがぶっ飛んでいる(いささかぶっ飛びすぎている)ということでしょうか。

 デビュー作は、日本からブラジルまで直通の「穴」を掘るという国家プロジェクトの話、第2作は、風船を背負ってビルの屋上から飛びたった会社員が北硫黄島に不時着してしまう話、第3作は、いかがわしい求人広告につられた男がついに「こんとん」なる得体のしれない物体に遭遇する話、そして最新作は、父親から伝えられた恐竜時代の記憶を連綿と語りだす中年男の話。

 とはいえ、いっけんトリッキーにもおもえるそうしたストーリをささえる文体は、じつに堅実そのもの。想像のはるかナナメ上を飛翔するストーリーと、そのいっぽうでしっかりと地に足のついた文体と、その「高低差」こそが山野辺太郎という作家のひとつの魅力になっています。

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 デビュー作および第2作では、「組織と個人の対立」がひとつの重要なテーマでした。
 著者じしん、みずからがふだんは「会社員」であることをあきらかにしていますが、それらふたつの作品でえがかれていたのは、組織(システム)の論理にからめとられ、ホンロウされ、しかしそのなかで組織の一員であることの「責任」を捨てきれない登場人物たちの、健気で切ない姿でした。

 第3作では、先行の2作ほどにはそのテーマ性は強調されませんでしたが、それでも、薄給前提であつまった非正規労働者が最終的に「こんとん」という奇妙な物体に主体性をうばわれていく過程は、むしろそれまでの作品以上にアクチュアルで痛烈な寓話として読むことができました。

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 あるいはそれを、「サラリーマン小説」といちおうはよぶこともできるかもしれません。
 じっさい、戦後の現代文学には「サラリーマン小説」ないし「会社員小説」といわれる系譜が存在しており、『さして重要ではない一日』などでしられる作家の伊井直行は、『会社員とは何者か?―会社員小説をめぐって』と題した興味ぶかい文学論を書いています。

 ですが、山野辺太郎の作品は、「会社員によるサラリーマン小説」とひとくちで片づけてしまうにはいささか惜しい、ある特徴的なテーマをもっています。
 そして、そのテーマを徹底しておしすすめたのが、まさしく今回発表された「恐竜時代が終わらない」という作品でした。

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 今作は、奇妙な講演の場面からはじまります。

 その講演者は、岡島謙吾という50代の男性。彼の語るところによれば、「世界オーラルヒストリー学会の日本支部長」である「蓮田由理子」なる女性から依頼を受けてそこに登壇しているとのこと。
 岡島には、幼いころに父親から「恐竜時代」について語られた記憶があり、そのできごとについて語るというのがその講演の目的でした。

 けっきょく最後までこの「世界オーラルヒストリー学会」も「蓮田由理子」も、その正体はあきらかにされません。

 ですが、重要なのは、山野辺太郎という作家がこれまでのすべての作品で一貫して追いつづけていたテーマ、それこそが「記憶の継承」というものだったということです。

 岡島は、みずからが継承した「恐竜時代」の記憶を、後代に受け継いでいくことを使命だと感じています。彼は50歳になってなおひとり身であり、その記憶の「共有者」がひとりもいないことを危惧していました。そうしてそこへ奇遇にも舞いこんできたのが、「蓮田」という女性からの依頼だったのです。

 山野辺太郎がえがく作品の登場人物たちからは、いつも、「受け継ぐ者」としてのつよい責任感がつたわってきます。彼らはつねに、じぶんが目撃しているもの、あるいはその人生そのものを、後続の世代へとなんとかしてつないでいこうとつとめています。

 作品を作家じしんの主題にそのままむすびつけることには慎重になる必要がありますが、あるローカル番組に出演したさい、山野辺は、つぎのような印象的なエピソードをかたっています。
 山野辺は中学3年間野球部に所属していましたが、公式戦に出場したのは、一度だけ。それも代打です。しかし、そのたった一度の打席で山野辺は、送りバントをひとつ成功させるのです。

 野球をやっていれば、ホームランを打ちたいなとか、そういうことも、やる前はあったと思うんですね。で、やってみたらとてもそうはいかなかったと。
 でも、人生ひとつかけて、送りバントひとつ決める。そんな人生でも、いいんじゃないかっていまは思っているんですね。
 過去から受け継いできたものを、引き継いで、じぶんなりに咀嚼して、つぎの世代に渡していく。ある種の送りバントを人生かけてできればいいのかな、っていうふうにいまは思っていまして、そういう考えが小説のなかにもでているかな、というふうに思います。

 山野辺の作品にでてくる登場人物たちは、この「送りバント」への意識をつよくもっています。受け継がれるのは、国家プロジェクトのこともあれば、戦争の歴史であることもあれば、恐竜時代の記憶であることもあります。
 しかし、それがどのような状況であれ、彼らはひたむきに、あるいはほとんど愚直に、それを受け継ぎ、後世へと物語をつなげていこうとしています。

 過去にもましていっそう刹那的に「文学」が消費されているこの時代。それでも作家にできることは、ただもくもくと小説を書きつづけること、それだけです。
 わたしたちはどのようにして歴史を、物語を、そして文学を受け継いでいくことができるのか。山野辺太郎の作品は、そのような反省を読者に強いずにはいられません。

 さて、ここまでお読みいただいたかたがたへ。いかがでしょうか。すこし、「山野辺ワールド」をのぞいてみたくなりませんか?

 最新作は「文學界」の7月号で読めますし、圧倒的な悲喜劇がえがかれたデビュー作をお楽しみいただくのもよいかもしれません。


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