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久しぶりの人と会って感じた、さみしさについて

こんばんは、上田です。

今日も、小分けでいくつか書いてみます。なんとなく、テレビ番組『サザエさん』のお話、3本立てみたいな感じになってきてます。

・久しぶりの人と会って感じた、さみしさについて

じぶんの生涯を終えるまでに、ずっと長く付き合える友人というのは、案外、そんなにいないのではないだろうか。

先日、2年ぶりに、以前の仕事場の仲間と、飲みの席で話したのだけれど、どうも居心地がよくなかった。

お店の雰囲気が悪かったとか、話したメンバー間の仲が険悪だったとか、そういう意味での、居心地がよくないではない。

その居心地がよくないことを感じるきっかけになったのは、「今、君は何をしているの?」と聞かれて、じぶんが答えた時の相手側の反応だった。

ぼくが答えた内容については、詳しくは書かないが、答えた内容に対しての、同席者のリアクションが薄かったことと、なんとなく、ぼくが話す内容と、彼らが話す内容が、合わなくなってきたのかなぁと感じて、少なからず、さみしさを知ったからだ。

もちろん、ぼくの説明の仕方がよくなくて、相手にとって分かりづらかったり、イメージが湧きづらかったりというのは、あるのかもしれないので、リアクションが薄かったことについては、しょうがないと思っている。

どちらかと言うと、お互い話す内容が合わなくなってきたことへのさみしさを、ぼくが感じたことの方が、居心地がよくないことに起因していると思われる。

誤解がないよう言っておくと、誰が悪いわけでもないし、合わないことに腹を立てているのではない。むしろ、しょうがないことなのだ。

ぼく以外に同席した人たちは、以前ぼくが勤めていた業界の人たちだ。なので、会話の内容も、自然と、そちらの業界話や内輪の話になってくる。

じぶんの古巣だから、彼らが話してくれる彼らの状況や、彼らが何に不満や喜びを感じているか、経験上、理解はできた。会話の中で、話についていけないということにはならなかったし、知らない情報があれば、尋ねたりもできる間柄だ。

なので、彼らの業界が今どんな感じになっていて、彼らがどんな状況に置かれているかは、断片的であれ、理解はできた(古巣の話なので、経験上のバイアスも多少かかっているかもしれないが)。

ぼくは、ほぼ聞き役として、その場にいた。何にぼくは、違和感を感じていたのか、さみしさを感じていたのか、まだ、ことばとしては、うまく言えないのだが、端的に言うと、彼らの世界の中に、じぶんの居場所は、ないかもしれないと思ったことだ。

出てくる会話自体は、ぼくが知らないこともたくさんあって、知るということは、たのしめたのだが、何かが足りない。ぼくが見ている世界と、彼らが見ているものとに、だいぶ距離があるのだ(距離という言葉があっているか、ちょっと自信がない)。

距離がある状態で、話に理解を示すことに対して、ぼくは居心地がよくないのだ。どこかで、ぼくの心は他人ごとなのだ。心ここにあらず。

過去のじぶんとしては、彼らの話は共感しているが、今のじぶんは、そこまで共感していない。そういう意味で、実のところ、彼らの話をちゃんと聞いていないのだ。いや、聞いていたが、他人ごととして、聞いていたのだ(当事者ではないから、しょうがないのだけれど)。

そういう心境なものだから、じぶんが、この飲みの場に居なくても、それはそれでいいんじゃないかなと思った。過去の関係値があるから、その場所に居続けることに固執すること自体が、じぶんにとって、居心地がよくないことを生み出しているのだろうかと思う。

なんとなく、相手に対しても、後ろめたさみたいものを感じつつ、じぶんも少なからず我慢をしているのを感じた。

彼らに、じぶんの正直に思っていることを言えないわけでもないし、言いづらい雰囲気がある関係値でもない。受け止めてもらえる可能性もあったが、おそらく、そういう話を求められていないだろうと思った。話が、きっと合わないんじゃないだろうかと思った。

それは、先ほどの「今、君は何をしているの?」の回答に対しての、相手側のリアクションの薄さや関心の示され方に、温度差を感じてしまったからだ。

彼らが求めているのは、過去のじぶんであって、今のじぶんではないのかもしれない。でも、ぼくは、今のじぶんの話をしたい、知ってほしいのだ。

生涯終えるまでに、ずっと長く付き合える人いうのは、案外、そんなにいないのではないだろうか。

じぶんの年齢や身を置く環境によって、付き合う人は、たえず変わっていくのだろうなぁと感じた夜だった。それが、少し寂しいなぁと感じるけれど、そんなに絶望もしていない、じぶんがいる。

・アニメ『空挺ドラゴンズ』を観て、いいなぁと思うこと

Netflixで、アニメ『空挺ドラゴンズ』を2日かけて、全12話を観た。

野球チームみたいなタイトルだが、ゲームやファンタジー作品に出てくる飛空挺に乗ったクルーたちが、空を飛んでいる龍(ドラゴン)をチームで狩る物語だ。物語の中では、龍<ドラゴン>を狩る=龍捕り(おろちとり)と呼ばれている。

なんとなく、スタジオジブリ映画の『天空の城ラピュタ』の空中海賊・ドーラ一家が普段飛行船で過ごしている生活感と似た光景が覗ける。

実際ないけどあったらいいなぁ

作品として興味深いのは、単なるチームで龍を狩るファンタジー冒険物語ではなく、狩った龍を解体して、その部位(龍肉、龍皮)や龍油と言われる材料を、町で売ったり、自分たちで料理して食べたりするところだ。

エピソードタイトルにも、時々、「乗船理由と龍のテリーヌ」「賞金と極小龍の悪魔風」と料理名がセットでついてくるところから、物語の中で、ご飯が重要な要素として入っている。

また、狩った龍をどう処理をするのか、その世界の中で生きている人たちの工夫(料理や道具)する姿が毎回描かれ、ファンタジーの中で、人の文化が感じられる。

ぼくらの現実の世界に置き換えて見た時、現実にはないけれど、あったらいいなぁと感じる部分と、現実の中にも、こういうのあるあるという部分とが、いい感じにブレンドされていて、リアリティと親近感が少し湧く。

現実には、龍肉はないけれど、現実にはあるポーク、キャベツ、卵などと一緒に調理するから、現実にありそうでなさそうなご飯として受け取れて、いいなぁと思う(いや、まぁ、龍肉はないから、何かに代用するしかないのだけれど)。

龍の見た目がゲテモノっぽいんだけど、調理中の龍のお肉は、おいしそう。龍肉を鉄板で焼いている時の音や匂い(絵の表現でしか分からない)、パン粉のついた龍肉を油であげる音と狐色の衣が、想像力をかき立てる。

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どんなファンタジーゲームや小説を体験したことのある人は、想像の中の世界が、現実味を帯びる感じに、少し酔いしれるかもしれない。

先の見えない世界の中の、クルーたちの姿勢

チームの冒険目的や主人公の目的が、とりわけあるわけではなく、日々の空での龍捕りとチーム仲間たちの生活風景を描いていく、日常ファンタジードラマと言った方がいいかもしれない(僕ら視聴者からしたら、非日常だけど)。冒険ということばをつけていいのかは、なんとも言えない。

ちょっとずつだけど、主人公の新人クルーの女の子(タキタ)のできること(仕事)が増えてきたり、彼女が関わっている空での仕事(龍捕り)が、どういうものかを、彼女自身が知っていく。

カッコいい言い方をすれば、龍と人が住む世界の中のじぶんを感じること、知ることを、物語の中で描いている。

チームでもあり、赤の他人だが、家族同然のような関係値が築けている飛空挺のクルーたち。登場人物たちの関係値を描くにあたり、彼らの過去は、ほとんど描かれていない(主人公ですら)。過去の回想が全くないのだ。

時々、登場人物の個人の心情にフォーカスする部分はあるが、具体的でなく、かなり抽象的でピンこないところもある(個人の感想です)。

チームである彼らから感じられるのは、空の世界で生きていくことを決めた覚悟のようなものと、そこが、自分たちにとっての居場所だと思っているところだ。

彼らの過去はちゃんと描かれないけど、今を描いている。

日々、先行きも読めない、龍捕り。安定して龍が獲れるわけもなく、飛空挺の維持費やクルーの給料などの金銭のやりくりも、毎回赤字続き。

彼らは、不安を抱えながらも、その日その日、龍を狩ることで、喜びや恐怖を感じながら、たくましく生きている。それを、彼らは行動で示している。彼らが、生きている実感を、体全身で感じている姿に、少し憧れて、カッコいいなぁと思う。

生活感のあるファンタジードラマは、観ていて、たのしい。チームで、赤の他人が家族となって、空の世界で生きるって、少しロマンがある、そんな作品でした。漫画原作なので、今度漫画も読んでみよう。

・食パン1枚で、お腹が膨れるわけについての仮説

先日書いたnoteの続きですが、食パン1枚でお腹がいっぱいになる理由として、食前後で豆乳を飲むと、そうなるという仮説が、じぶんの中で、濃厚になってきました。インターネットで調べたら、分かりそうなことですけど、あえて調べません。どうでもいいことかもしれないことで、恐縮です。

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最後まで読んでいただき、ありがとうございます。最近、じぶんでnoteを書いていて、ほんと細かいことを気にする人間だなぁと、実感してきました。

サポートありがとうございます。カフェでよくnote書くことが多いので、コーヒー代に使わせてもらいますね。