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詩を読んで、原風景。

谷川俊太郎『二十億光年の孤独』のページをパラパラとめくった。
その中に、「絵」というタイトルの詩を読んだ。





わたれぬような河のむこうに
のぼれぬような山があった

山のむこうは海のような
海のむこうは街のような

雲はくらく——
空想が罪だろうか

  白いがくぶちの中に
  そんな絵がある

集英社文庫 二十億光年の孤独 谷川俊太郎

頭の中に、作者の少年時代の原風景が浮かんでくるようだった。
ただ、どんな風景かはわからない。

浮かんできた風景は、僕の原風景でしかなく、作者の原風景ではない。
でも、きっとこうなんだろうなぁって思うぐらいのことはできる。

詩というものは、昔からそんなにたくさん触れてきたわけではないが、それゆえに、どう受け取っていいか、よくわからないものだ。

読んでみて、どう思もうが、自由であると、以前古本屋の店主に聞いたことがある。

そこには、誤った解釈はあってもいいのだろうか。

頭の中で、言葉の一つ一つの意味と、言葉の繋がりで、どういう状況なのか?、作者は何を言いたいのか?

ついつい、考えてしまう。
どうも、正解のようなものを探してしまう。

読んで、聞いたまま、どう自分は感じたのか?は後回しにしてしまうことがある。

詩を読むと、それを自覚させられる。

読んで、聞いて、素直に浮かんでくる原風景のようなものについて、これから考えていく機会を作っていきたいなぁ。


ちなみに、なんで、谷川俊太郎の作品を持ち出してきたのか。

気まぐれで、自宅の本棚に眠っていた本から、思いつきで、手にとって通勤鞄に入れてみたのがはじまりだ。

いや、もっと遡れば、あるウェブサイトで、とある故・経営者についての記事を読んだからだ。そこには、その経営者は、「詩を書く動機」みたいものが胸にあって、それをもとに、経営をしていたのではないかということが書いてあった。

詩を書く動機って、どういうことだろう。疑問を持った一方、なんかそういうのいいなぁとも思ってしまった。

なんでいいなぁと思ったのかが、気になって、詩の本を手に取ろうと思ったのだ。

谷川俊太郎の作品は、たまたま以前気になって手にとって、本棚に眠らせていただけの話で、特別、谷川俊太郎のファンということではない。タイトルがよかった。


ほぼ毎朝通っているカフェで、詩をパラパラめくる。

そこで頭の中で浮かんでくる原風景は、どんなものか?

書きとめてみるのも、楽しいのではないだろうか。



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