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アウトプットする時、自己優越感に似たものに臆病になる① 〜じぶんなりのアウトプット姿勢を見出したい

久しぶりに書きます。ここ最近、なんでじぶんはアウトプットしている途中で作業を止めてしまうのか、そして臆病になるのかについて、毎日ではないけれど、時々漠然と考えていました。

今回、漠然と考えていることについて、あえて書こうと思ったのには理由があります。アウトプットに対して抵抗を何かしら持っているじぶんと、どう向き合うかを考え、じぶんなりのアウトプット姿勢のようなものを見出したかったからです。できない理由をちゃんと認めたかったからです。じぶんなりの姿勢というのは、書くための所信表明の前段階のようなイメージです(もしくは、すでに所信表明になってるかもですが)

一応、姿勢を通してのゴールのようなものは、じぶんの中で、徐々に固まりつつあります。一方、姿勢の中には、避けては通れない、じぶんの性質のようなものが同時に浮き彫りになっています。正直今回noteを書き終えた時、じぶんって嫌な奴かもしれないなぁって、何回も想像してしまっています。

とは言いつつ、個人的な思考段階のもので、現在進行形なので、じぶんの考えが正しいとかは、あまり気にしないで今回書いてみますね。

前置き① アウトプットで使うツールについて  

アウトプット(発信)とぼくは使っていますが、今回のアウトプットの具体例で言うと、SNS上において、noteを書いて投稿する事をイメージしてもらえればと思います。ぼくの場合、noteでアウトプットする時に、躊躇する事がよくあるからです。投稿前の下書きも数えてみたら、10個以上ありました。

一方、note以外のSNSツールはどうかと言うと、ぼくが使っているTwitter、InstagramやFacebookでは、そこまでアウトプットすることに躊躇はありません(ちなみにnoteには「つぶやき」というツールがありますが、今回は「テキスト」で書くというツールを前提に話しますね)

Facebookは、TwitterやInstagramと違って、顔を知っている者同士による身内感(家族、仕事関係など)があります。なので躊躇する事はあまりないのですが、投稿する内容は選んでいます。

身内だからこそ、見せたい見せたくない姿という感情が生まれてくる興味深いツールです(ぼくの場合です)ただし、今回のnoteでは、Facebookについて語ると話がややこしくなるので、細かく触れません。

前置き② 「流れているか」と「長さ」について 

さて、 noteとその他のSNSツール(TwitterやInstagram)との躊躇の差はなんなのでしょうか。おそらく「流れているか」「長さ」だと思います。

TwitterやInstagramは、投稿履歴は残りますが、タイムライン上で一つの投稿が流れても、すぐさま他人の投稿に埋もれて、やがて忘れ去られます(誰かがリツイートしたり、バズったら、話は違ってきますが)忘れられるのは、一見寂しいと思いますが、下手なことをアウトプットした時のことを考えると気楽でいいです(炎上したら、一時覚えられちゃいますが)

一方、noteもタイムライン上では流れてはいますが、TwitterやInstagramと違うのは、1つの投稿をパッと見ても完結しません。完結しないのは、流れてきた投稿を一度クリックしてページに飛ばないと詳しい内容がわからないからです。

noteは見出し文とサムネイル画像がタイムライン上で流れてきます。興味があれば、その投稿をクリックします。より1つの投稿の枠の中に入って、そこで内容とじっくり向き合うため、読者にとって記憶に残りやすいとぼくは考えています。

記憶に残りやすいので、ちゃんと書かないといけないなぁという気持ちになります(それ以前に書いてるある内容にまず興味を持ってもらえるかが大事なところもありますが)そして過去の投稿したnoteも読まれる可能性があり、アーカイブ的要素となって、形(作品)として残る印象をぼくは持っています。

ちなみにInstagramもクリックしないと細かい内容(補足や感想コメント)はわからないですが、文章よりも写真やイラストなどの画像で直感的に第一に伝えるのがInstagramの醍醐味だとぼくは思います。直感的に伝わるハードルは、文章よりも低いです。画像はパッと見の情報量が多いので、興味を持ってもらいやすいです。

noteの話に戻します。見出し文とサムネイル画像がタイムライン上で流れますが、内容が完結しないのは、中身が長い前提だからです。中身が長いという事は、書いている時、長い文章と書く際に伴うじぶんの思考内容とじっくり向き合うことになります。頭の中で、じぶんというヒトリと向き合って、対話します。内省します。 

Twitterでも深く内省はできますが、つぶやける文字数が限られます。伝えらえる情報量も限られてきます。言語化スキルが高ければ、短く的確に内省した事を伝える事はできますが、ぼくはなかなかできません(日々実験してはいますが)

短いとせいぜいその時事象に触れて思った事や感情について、ストレートに言う事ぐらいしかできません。「この映画観て良かった、最高!」みたいな感じでいいのです。

言い方は適切ではないかもしれませんが、Twitterは手軽にじぶんの感情をアウトプットしやすいツールだと思います。流れる事と紐付けた場合、短い文章は、独り言のような会話と似ています。そしてじぶんの言葉が消えていくイメージがぼくにはあります。だから、気持ちは楽です。だから、過去につぶやいた事を繰り返しつぶやいてたりしています。じぶんのつぶやいた事すら、忘れているのです。

あえて手軽と言いましたが、詩やコピー、物語のタイトルのように、情報が凝縮された媒体もあり、短いからこそ、心に響いて残るものもあるのも事実です。短いからこそ、想像するたのしみがあって、ぼくは好きです。

まとめると、流れていて長いのと短いのとでは、流れて長い方が、個人的にはアウトプットする時、躊躇する傾向にあります。

長い前置きは、ここまでです。


さて、具体的にどんな事を書いていくかですが、内省を伴いながら長いアウトプットをしようとする時のじぶんについて、書いてみます。じぶんを考察する過程で、じぶんの中でよく起こる感情がある事に気づきました。

そして、その感情に対して、じぶんは違和感を感じています。その感情について、じぶんはどう向き合うかを、これから考えていきます(答えもまだ出ていません、あってるかもわかりません)

その感情とは「自己優越感に似たもの」です。あえて「似たもの」という言い方をしてる理由については、次回お話します。

前置きだけで、長い文章になってしまったので、今回はここで区切ります。
(あとで、このnoteアップデートするかもしれません。読み直してみて、読みにくいなぁ、意味不明かもと、じぶんでも思う時があるので)


サポートありがとうございます。カフェでよくnote書くことが多いので、コーヒー代に使わせてもらいますね。