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『演技と身体』Vol.22 感情と身体① 〜なぜ身体論なのか〜

感情と身体① 〜なぜ身体論なのか〜

軽んじられてきた身体

この連載記事は身体論的アプローチによって演技を考えようというものであるが、“身体論”という響きにはどこか心の動きを軽視するような感じがあると思われるところがあるようだ。だが言いたいことは逆である。心の動きについて考える時、身体を離れて考えることは本来できないはずである。それなのに、これまでの演技論では身体的な側面は軽んじられてきたように思う。逆に言えば、「演技」という表現領域にはまだまだ開拓の余地が残されており、身体的なアプローチによって人類はもっと深い演技の領域に踏み込むことができるかもしれないのだ。
例えば、感情と内臓反応の相関関係はせいぜい西暦2000年前後に立証されたものであり、それを演技の方法論として取り入れている例はない。現在一般的な演技理論は20世紀に確立されたもので、思想的には19世紀〜20世紀初頭の影響を強く受けているのではないかと思われる。現在ではそうした当時の思想や科学への反省も多くなされているにもかかわらず演技の領域では依然として古い考えにしがみつく傾向が強い。
今回は感情と身体の関係について説明するとともに、僕がその中でどのような立場を取ろうとしているかについて書いてみようと思う。

身体論=心の回復

多くの人は、自分は特定の思想の影響は受けていないと思っているかもしれないが、必ずしもそうとは言えないだろう。
例えば、人間を〈精神〉と〈身体〉に分けて考えることができると思っているならそれはすでに近代思想の影響だと言える。人間を〈精神〉と〈身体〉に分けられるというのは事実というより思想なのだ。
こうした思想は17世紀に生まれたもので、〈精神〉が人間の本質で〈身体〉はその道具だと考えた。〈精神〉を持たない自然や動物は支配や分析の対象となり、道具としての〈身体〉は修理・交換が可能なものとなった。それによって科学や医学は大いに発展を遂げ、今の私たちの生活の豊さにつながっている。だが、現在ではそれが少し行き過ぎている。ご承知の通り、自然環境はすでに取り返しのつかないほどのダメージを受けており、身体は消費かコンプレックスの対象となった。はっきり言えば、身体の地位を軽くみたことで人間の心はとても貧しいものになってしまったと僕は思う。
だから身体論という時、多くの人は“道具としての身体”をなんとなく想像して味気ないものに思えてしまうのではないだろうか。だがむしろ身体論というのは、ないがしろにされてきた身体の意味・働きを見直すことで、貧しくなった心の回復を目指すためのものとして語られるのだ。
現代では社会全体が近代思想の影響で動いているので、その影響から逃れようと思うならば、そのことに自覚的である必要がある。

“身体性の感情”と“非身体性の感情”

だが心と言ってもそう一口に捉えられるものでもない。たとえば世阿弥の論の中でも意識層における「心(こころ)」とより深層にある「心(しん)」とを区別しており、精神分析学でも意識と無意識、仏教思想でも六識と阿頼耶識(あらやしき)という風に心というものは古今東西で深く探究されており、とてもこの記事の中で踏み込めるものではない。
そこで今回は演技ととりわけ結びつきの深い〈感情〉と〈身体〉の関係を取り上げようと思う。
〈感情〉というものはあまりに自明なので、そのことについて考えたりする必要はなく、ただ感じることができればよいと考える人もいるだろうが、よく考えてみると感情の中にも“身体性の感情”“非身体性の感情”があるということがわかる。そして演技をするに当たってそのどちらを動員させるかによって大きな差が生まれる。

感情の三段階

〈感情〉を三段階に分けて考えてみたいと思う。
例として「暗闇に対する恐怖」というものを考えてみよう。
子供の頃だが、夜中にふと目を覚ました時に部屋が真っ暗でひどくパニックに陥った経験がある。寝ぼけていて状況が飲み込めなかったせいもあるだろうが、とても恐かった。この状況を「暗闇の中にいて、暗闇それ自体を恐がっている」としよう。
次に僕が中学生の時、友達の家から帰る途中、しばらく月明かり街灯も家灯もない真っ暗な道を通らなければいけなかった時がある。この時、暗闇それ自体は覚悟できるものだが、見知らぬ人や動物やお化けに襲われるのではないかというイメージが自然と働いてきて、それを考えるとやはり恐かった。この状況は「暗闇の中にいるが、暗闇それ自体ではなく暗闇が想起させるイメージを怖がっている」ということができる。
そして、今このような想像をしてみる。真っ暗な田舎道を歩いていて、ふと家の鍵がないことに気がつく。どうやら道の途中で落としたらしい。全く灯のない暗闇の中で落とした家の鍵を探さなければならない。実際に経験したわけではないが考えるだけで心細く泣きたい気がしてくるような恐さがある。この状況は「実際に暗闇の中にいる訳ではないが、その状況を想像して怖がっている」といえる。

没入・想起・非状況依存的

上の三つを整理してみよう。一つ目の話は暗闇を経験していてしかも暗闇それ自体が恐怖の対象である。本人は何が恐いのかさえわかっておらず、いわば暗闇に溺れている状態である。このような感情を〈没入的な感情〉としよう。
二つ目の話は暗闇を経験しているが恐怖の対象は暗闇それ自体ではなく暗闇が指し示して想起させるイメージであった。注意すべきなのは、この想起が暗闇によって否応なしに引き起こされるという点であり、【知覚】→【想起】という風に、想起に身体的知覚が先行している点だ。この時の感情を〈想起的な感情〉とする。
三つ目の話は、そもそも暗闇を経験している状況にないがそれでも暗闇の持つ恐さを想像して感じることができるというものだった。暗闇という状況に依存することなく暗闇の恐さを感じられる状態である。このような感情を〈非状況依存的な感情〉とする。この〈非状況依存的な感情〉は抽象的な思考が要求されるものであり、知性が必要となる。だから小説を読んで感動するということは人間だけに許された高度な感情行為だと言える。そして、この〈非状況依存的な感情〉だけが他の二つと比べて“非身体的”であるということもわかるだろう。なぜなら、暗闇を身体的に経験することなしに暗闇を恐がっているからだ。
話を進めやすくするために最初の二つの〈没入的な感情〉と〈想起的な感情〉をまとめて“身体性の感情”とし、三つ目の〈非状況依存的な感情〉を“非身体性の感情”と一旦まとめ直しておこう。

“非身体性の感情”による演技の落とし穴

演技において精神的な面を重視しすぎると、この“非身体性の感情”を中心とした感情表現に偏りがちになってしまうのではないだろうか。脚本を読んだ時に経験する感情というのは確かにこうした“非身体性の感情”に違いないのだが、演じる際にそれをそのまま再現できる訳ではないのだということをよく注意しておかなければならない。
“非身体性の感情”にはよい面ももちろんあるのだがそれをいかにして活用するかは次回に回して、今回はその短所を端的に指摘しておこうと思う。
それは文字通りなのだが、感情が身体に表れ出ないという点だ。“非身体性の感情”は、役者の中でそれがどんなに昂ぶっていても、身体性を伴わないので表現にはならないのだ。それが行き過ぎると、役者だけがその感情に気持ちよくなって周りには全く伝わっていないような状況が生まれてしまう。そこで“非身体性の感情”→[身体表現]という順を踏もうとするがそれも多くはうまくいかない。そこには無意識に、〈精神〉と〈身体〉を分けて〈身体〉を〈精神〉の表現のための道具とみなすあの近代思想が影を落としている。身体というものを単純で操作可能な機械だと思い込んでしまっているのだ。実際には身体は意識で操作できるほど単純ではなく、身体が最も複雑な動きをする時というのはそれが自律的に動いている時だ。だから意識的に身体を操作しようとするとどうしてもぎこちなくなるのだ。

“身体性の感情”を基礎とすべし

そこで、演技において重要なのは“身体性の感情”を基礎とすることである。“身体性の感情”を基礎に演じることによって初めて“非身体性の感情”が表現として生きてくるのだ。では、“身体性の感情”を基礎に演じるとはどのようなことなのか、それに“非身体性の感情”を掛け合わせるとはどのような働きによるものなのか、次回詳しく説明していこうと思う。

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