『演技と身体』Vol.19 脚本の読み取り③ 読み取りの手順
脚本の読み取り③ 読み取りの手順
これまで2回に渡って脚本の読み取りについての考えを述べてきた。今回はそれらをまとめて、具体的な手順を提案しようと思う。
前半は理論的な内容を扱うので、興味の沸かない人は「脚本の読み取りの手順」という見出しから読んでいただけたら良いと思う。
パースの記号論
前々回の記事で書いたことは、まず脚本に書かれているト書きやセリフをただ思い切りやってみるべきだということだった。そして前回の記事では、セリフの言葉通りの意味に流されずにイメージのレイヤーについて考えるということを書いた。これらを統合する前に一つ理論を紹介しておこう。
哲学者のチャールズ・サンダー・パースの記号論である。
ここでは何かを表象するあらゆるものを「記号」としておく。パースは、記号を三つの段階に分けて説明する。
第一段階が“イコン(アイコン)”である。例えば「もくもく」という言葉は“煙”の様子を写実的に表したイコンであると言える。
第二段階は、“インデックス”と呼ばれる。実際に煙が上がっている様子を見ているとしよう。その時、その煙は火の存在を指し示して表している。煙は火に対するインデックスだ。
第三段階は、“シンボル(象徴)”だ。「煙」という言葉である。「煙」という言葉は写実性なしに煙を表すシンボルである。
さて、この三つの違いを比べてみよう。まず、イコンでは「もくもく」という言葉が煙を写実的に表していた。これが「もけもけ」になってしまうと、うまく煙の様子を表せなくなってしまう。つまりイコンは表す対象をそのまま置き換えた記号であり、「もくもく」という言葉は煙の様子それ自体と離れて存在することができない。その〈ものそれ自体〉に没入していると言える。
他方、三つ目のシンボルになるとこの写実性がなくなる。つまり、「煙」という言葉は煙の様子を表しているわけではなく、必然性がない。これを「けむり」と読もうが「けぶり」と読もうが「スモーク」と読もうが構わない。「煙」という言葉は煙〈それ自体〉とは離れて存在する抽象的な記号なのだ。抽象的であるということは、その場の状況(”今ここ”)に依存しないということである。
インデックスが特徴的なのは、煙の存在が〈それ自体〉ではなく、別の対象(「火」)の存在を表しているという点だ。こうした特徴を外延指示的と呼ぶ事にする。さらに、このインデックスだけが言葉ではなく写真的・映像的な景色の中で機能している。いわば、イメージ的である。
イメージが大事
この三つの記号段階を特徴を取り出して整理すると、
①イコン=「没入的」
②インデックス=「外延指示的・イメージ的」
③シンボル=「抽象的」
となる。
①のそれ自体に没入して表すというのは、およそ全ての生命・物質に備わっていると言える。②の外延指示・イメージ利用は、知能を持った動物の間ではみることができる。③の抽象性は、人間にのみ利用可能な記号だ。
さて、この論考では人間的なるものを越え出て動物レベルから生命を考えることで、より深い感情の表現を目指すのだということを述べてきた。(第3回)。また、コミュニケーションとは意味ではなくイメージの交換なのであるということも述べてきた。(第12回)
これらを総合すると、②のインデックスの段階のイメージの豊かさこそが、脚本の読み取りや演技の質に最も大きく関わるのだということになる。そして、それを無視して「人物の設定」という抽象的なものを扱っても、それは演技をしている“今ここ”を充実させる助けにはならないのである。
脚本の読み取りの手順
ここまでの話を踏まえて、脚本の読み取りの手順を示したいと思う。僕の提案としては、ずばりこの記号段階に沿って
①何も考えずに没入的に演じてみる
②そこからイメージを掴み取る
③そのイメージを抽象的なシンボルに昇華させる
と順を踏むというものだ。
役の設定から入ることは、そのこと自体が悪いのではなく順番が逆なのだ。役のイメージを掴んだ先に設定が自ずと決まってくるのでなければならない。
①没入的に演じ、②イメージを掴む
では、まず「①没入的に演じる」とはどういうことか。それが第17回の記事で書いたことである。ト書きやセリフに書かれていることに自分を思い切りぶつけてみるということだ。やってみる前に何か考えたりせず、また書かれていること以外の動きやセリフをやらずに、ただ思い切りやってみるのだ。
そして次にその中から「②イメージを感覚的に掴み取ってゆく」。これが第二段階だ。ここで大事なことは、前回の記事で詳しく書いたが、セリフの“意味”に流されずにその場面における適切な強さや柔らかさを掴むということである。そしてここのところのイメージをどこまで豊かなものに膨らませることが出来るかが大切だということは先ほども述べた通りだ。例をあげて説明しよう。
相手に対して激しく怒っている場面があるとしよう。当然、「強さ」というものが前面に出てくるが、これに方向性を加えると「相手を責める」感じになる。さらに、これを動的なものにして「相手を殴ろうとする」ような感じに発展させる。さらに、「実際に相手を殴る」ようなイメージでセリフを言うのか、それとも「殴りたいけど殴れない」イメージでセリフを言うのかやりながら決めてゆく。「殴りたいけど殴れない」イメージだとしよう。それは、「相手がいたいけな小動物のようだから殴れない」のか、「何か自分より大きな存在に背後から睨まれていて殴れない」のか、「自分の中で殴りたい自分とそれを必死に止める自分が闘っていて殴れない」のか。こうしたイメージを突き詰めていくと自然と相手との関係や設定が浮き上がって見えてくる。
③抽象的なシンボルへと昇華させる
このようにしてイメージを膨らませた延長上に設定を掴んでゆくのが、「③シンボルへの昇華」といった作業である。「自分の中で殴りたい自分とそれを必死に止める自分が闘っていて殴れない」のは、「結婚をしたばかりで、自分自身を変えようとしている」からなのかもしれないし、「前科がある」からかもしれない。こうした設定は、脚本に書かれていなければ「物語の範囲外」のことなので、自由に決めて良いし、人に言う必要もない。そして、そのような設定に行きつけば、物語全体を通して人物の一貫性が担保できるという利点がある。
詩的抽象化
もっと高度な抽象化の方法もある。それは、設定に向かって抽象化するのではなく、具象的なシンボルに向かって抽象化してゆくという方法である。
物語全体を一つの景色に置き換えてしまうのだ。「殴りたいけど、自分の中で殴りたい自分とそれを必死に止める自分が闘っていて殴れない」人物の物語を例えば、冬木立に風が吹き付ける様子に置き換える。その中でこの人物は、風に飛ばされないように枝にしがみつく一枚の枯れ葉である。様々な状況が彼を枝から離れさせようとする。カラスが枝に止まって木を揺する。雪までもが降ってくるかもしれない。それでも、枝にしがみつき穏やかな朝を迎える。あるいは、ついには飛ばされてあとは風に吹かれるがままに荒れ狂う。
同じ抽象でも、詩の世界へと抽象化するということだ。そして自分がそうした詩的な抽象イメージの中にまるっと入り込んでいくことによって演じるということを超越していこうということだ。自分をイメージの中に溶け込ませていき、自我を無化する。そうした境地を世阿弥は「無文」と呼んでおり、非常に高い芸位を与えている。
高い創造性が要求されるので難しくも思えるのだが、実は世阿弥が『五音曲条条』という書の中で、大きく五つのイメージを提供してくれているので、紹介しよう。
「祝言」・・・松
「幽曲」・・・桜
「恋慕」・・・紅葉
「哀傷」・・・冬木立
「闌曲」・・・杉
これらは能の曲目を前提としているので、そのまま当てはめることはできないかもしれないが、かなりヒントになるのではないかと思う。
以上が、脚本の読み取りの手順である。少し入り組んでいるので改めて整理すると、①没入、②イメージ化、③抽象化の順である。③は少し難しい場合もあるかもしれないが、繰り返し述べているように②のイメージが大切だ。イメージを膨らませる訓練を続けていけば、自然と抽象化に繋がってゆくのではないかと思う。
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