『演技と身体』Vol.11 指向性のある爆発
指向性のある爆発
生命は爆発だ
芸術は爆発だ。
芸術は爆発で、爆発は無限に広がる運動で、宇宙だ。
しかし、芸術だけじゃない。
生命も爆発だ。無限に広がる運動で宇宙なのだ。
海の生物の形を思い浮かべてみよう。特に無脊椎動物を。
ウニ、タコ、イソギンチャク、ヒトデ。
どう見ても爆発している。
海の生物を選んだのは、海の中は浮力によって重力の影響が少なくなるからである。しかし、地上に上がって広葉樹や花の形を見ても、それが放射状に広がっているのがわかる。さらに空を見上げると、太陽の光がまさに爆発するように輝いている。
人間は重力に対する関係で現在のような直立した形に進化したわけだが、生命である以上その内部で働くエネルギーは放射状に広がってゆくのが本来であると考えられる。
これはカエルの骨の模写である。まさに跳躍したその瞬間のようにも見える。そして、その形が骨盤を中心として放射状に広がっているのがわかる。
跳躍は当然ながらある方向に向かってなされる、しかし身体の内部ではエネルギーは放射状に爆発しているのだ。僕はここに生命の本質があるように思える。つまり、生命とはただの爆発なのではなく、放射状に伸び広がりながらも且つ方向性を持って進む、「指向性のある爆発」なのである。
改めて花の形を眺めてみると、それは爆発していながら明らかに太陽の方を指向している。
演技への活用
さて、こうした生命の運動の本質を演技に取り入れてみよう。その効果は絶大である。
というのも、爆発という運動の下では上下左右の区別がなくなるからだ。このことによってすべての姿勢が肯定されることになる。
たとえば、演技において常により良い発声を心がけようと思うとずっと背筋を伸ばして正対していなければいけないことになるが、それでは演技にならない。演じる役の人物像を表現するに当たっては、腰を曲げたり、片方の足だけに体重を乗せたりすることもあるだろうし、心情を表現するに当たってはうずくまったり、体を反らしたり、変な大勢のまま固まったりすることもあるだろう。
しかし、役柄や場面に合わせて無理な姿勢をとったままでは声がよく出なかったり、感情がついてこなかったり、そもそもその姿勢が長く保てなかったりするという困難にぶち当たる。
そこで、この骨盤から放射状に広がるエネルギーの流れをイメージしてみる。すると、なんと無理な姿勢においても安定感が得られ、呼吸も楽になるのである。
放射状に伸びることによって、前後左右上下の区別がなくなり、あらゆる姿勢・体勢が正しいものとなる。
無限に引っ張られる
なぜそのようなことが起こるのだろうか。
放射状に爆発するということは、別な見方をすると自分の身体が四方八方から外に引っ張られるということである。つまり、張力が働くことによって身体の一部分だけに過度な負荷がかかることがなくなり、身体の中心が圧迫されることもなくなるのである。
天才能楽師であった観世寿夫は、能のカマエを説明するに当たって、「前後左右上下と言ったあらゆる方向から目に見えない力で無限に引っ張られていて、その力の均衡の中に立つ」ことだと言っている。そして、それを正しく体得したならば、寒稽古と呼ばれる真冬の朝晩の能の稽古においてもただ立っているだけで寒さを忘れることができるのだという。
爆発・収縮・爆発の移転
以上が、生命が指向性のある爆発であるということの説明であるが、さらにこれを応用すると様々な表現が力を持つようになる。
まず、爆発するばかりではなく、その反対にエネルギーの収縮させてみる。無限に外に広がるエネルギーを一点に収縮させるようにして動いてみるのである。それは非常に芯のある力強い動きとなる。”爆発”と”収縮”を動きの中で使い分けることで、動きにメリハリが出る。
さらに爆発の中心を骨盤以外の場所に移してみる。あるいは、一箇所だけではなく身体の複数の場所に爆発の中心を作り出す。そのことで、単純な動きのパターンから抜け出し、細かい表現、独特な表現へと応用できる。
こうした「指向性のある爆発」という動きは深層筋を使って骨で立つという感覚の上に成り立つものである。表層筋に力が入っている状態ではそもそも偏った方向に身体が引っ張られてしまい、放射状に伸びるエネルギーを感じるのが難しくなる。「指向性のある爆発」というのは、細かく言えば骨で地面を押すこと、表層筋が緩んでいること、主要な深層筋である大腰筋を伸ばして骨盤と上半身を分離して動かすこと、呼吸が深くできていることなど多くの要素を含むが、それらの細かい要素を同時に意識するのは困難なので、一つのイメージとして統合したものだと言える。
矛盾し脱コード化する
爆発とはそもそも矛盾を孕んでいる。上に向かいつつ同時に下にも前にも後ろにも進もうとするのだ。すると「指向性のある爆発」によって身体は内部に矛盾を抱えたまま方向性を持つという奇妙な状態になる。しかし、こうした奇妙さ、矛盾は演技においては大きな魅力となる。
言葉は決して爆発しない。この文章だってお利口に左から右へと一方向に流れている。言葉が上にも下にも右にも左にも同時に進むのはクロスワードパズルとして成り立つかもしれないが、それはまとまった意味のある文章にはなり得ない。
しかし、身体とは本来そうした言葉から逸脱してゆくべきものなのだということは前回の記事で述べた通りである。「指向性のある爆発」は、爆発によって脱コード化を企てつつ、指向性を持つことによって何かしらを表現することなのだ。
南方曼荼羅と関係の糸
上の写真は南方熊楠が書き残した「南方曼荼羅」と呼ばれるものである。
南方熊楠の思想は難解で、理解しきれていないところがあるが思い切って自分なりの解釈を披露してみると、以下のようである。
この図は三次元の立体空間を縦横無尽に伸びる糸として見るとイメージがしやすい。丸で囲まれた箇所は萃点(すいてん)と言って、いわば四方八方に伸びた糸が交差し合う結節点である。
この南方曼荼羅を人体だと思って眺めてみると、縦横に伸びる糸が神経でそれが寄り集まった萃点は脳や丹田など、神経の集合部位のようにみることができる。
さらに、この萃点をこれまで説明してきたような爆発の中心点だと考えることも可能である。そう考えると、人間の身体がいかにして爆発しているかということがよく想像されよう。
さらに、曼荼羅というのはフラクタルであるので、そのまま視野を広げて萃点を一人の人間であると考える。すると、この図は人間同士の関係のネットワークを表すことになる。人間というのは、ある意味で情報の塊である。遺伝子という生命の進化の情報に端を発し、成長する中で色んな情報を見たり聞いたりしてはそれを自分の中に取り込んでいく。そしてその情報の多くは周囲の人間から与えられたものだ。すると、人間というのは情報の糸が寄り集まって絡まったできた糸くずだという見方ができる。そして、先ほどと同じようにこうした関係の糸は反転して爆発として捉えることもできる。岡本太郎が大阪万博のテーマの一つであった「調和」という言葉について述べたように、人と人とが繋がるということは、互いに爆発してぶつかった先にあるのだと言える。
このように、爆発というのは生命の形や運動の本質であるだけでなく、あらゆる関係においての対立と調和を統合するものである。そして、そうした矛盾を抱えたまま何かを指向することこそが表現であり、芸術であり、生きるということなのだ。
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