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『演技と身体』Vol.34 無意識の話② 無意識を意識化する

無意識の話② 無意識を意識化する

前回は、意識的だったものを無意識化することについて述べてきたが、今回はその反対についても考えてみたい。

無意識はエラーによって意識化される

歩く行為が無意識の動作の総合であることは前回述べた通りだ。では逆に歩くという行為における一つひとつの無意識の動作が意識されるのはどのような時だろう。それは歩くことに困難が生じた時だ。たとえば足を骨折した時、松葉杖という新たな足を使って歩行という行為を作り直さなければならなくなる。
このように、無意識だった動作が意識化される場合の一つは、それまで無意識に行えていた動作にエラーが生じた時だ。
動作ではないが、こんな場合もある。ある日、住み慣れた街で駅に向かう途中に建物が取り壊されているのを目にする。あるいは新しい建物や店舗が作られている。その時、以前そこに何があったかを思い出そうとするのだが、うまく思い出せない。絶対に目にしていたはずの光景が思い出せないのだ。これはつまり、それまで無意識化されていた景色が、建物の取り壊しという出来事によって急に意識化されて気になるようになったのだとも言える。
そもそも、私たちは駅に向かうまでの道のりにあるものをどのくらい思い出せるだろうか。これには個人差があるだろうが、よく覚えている人でもたとえば自動販売機の位置や、店舗の並び順なども含めると曖昧なところとはっきり覚えているところとがあるのではないだろうか。その中で、はっきりと思い出せるのはどのようなところだろうか。多くの人が共通して思い出せるのは、曲がらなければいけない道の付近ではないだろうか。
これは意識/無意識とも深く関連している。なぜ曲がる箇所がよく覚えられているか(つまり意識化されているか)といえば、そこには〈探索〉が要求されるからだ。曲がる箇所は間違えると違う道に出てしまうこともあるため、どの角を曲がるとどこの道に通じるかということを〈探索〉する意識が働くのだ。
このように私たちは、〈探索〉を行うとき、無意識の中から必要な情報を意識化させるのだ。

〈探索〉によって潜在していた意味を発見する

別な言い方をすれば、〈探索〉という行為は無意識に眠っているものを呼び起こす効果がある
現代美術の鑑賞というのは、主にこうした〈探索〉行為によって成り立つのではないだろうか。
現代美術の父・マルセル=デュシャンの「泉」という作品は、男性用の便器を横に倒して署名しただけの作品である。男性用便器が男性用便所に適切に設置されている限りにおいて、それが特段意識されることはない。
だが、そこから切り離されて美術館に横に置かれた男性用便器は急に異物性を帯び始めることになる。男性用便器が美術館に置かれることは便器の本来の用途から考えたらエラーである。そしてその時、それまで無意識に見ていた馴染み深い物が、異様な物として意識化されることになる。
なんだこれは!?
となるわけだ。「なんだこれは!?」という問いをそのままにはしておけない。なんだかわからない物は人を不安にさせるからだ。そこで人々はその男性用便器を新たな文脈の中で捉えようと試みる。そう、〈探索〉するのだ。
そしてその時、それまでその男性用便器に潜在して見えなかった意味が現れるのである。

創造とはガラクタに新たな意味を付与することである

便所から切り離された便器はもはやガラクタである。そのようにして元々の機能を失ったガラクタに潜在していた意味を見出し、新たな機能を持たせることをブリコラージュと呼ぶ。
人類の進化はブリコラージュの賜物だ。地上に降り立ったことで、それまで木の上の「移動」に使われていた手はガラクタとなった。そのガラクタに「持つ」という機能を見出すと、それまで物を咥えて「持つ」役割をしていた口がまた別の役割をすることができるようになる。こうして人類は高度なコミュニケーション能力を獲得したのだ。
これを前回説明した脳のサリエンスシステムの観点から眺めるとどのようなことが言えるだろうか。
あるものがそれまで持っていた機能を失って代わりに新たな機能を獲得する時、サリエンス・ネットワークは一度解体されることになる。エラーが起こって機能しなくなるということは、それまでのネットワークでは通用しなくなるということだ。そして、そこに新たな意味を見出すには別のネットワークを構築する必要がある。そして、その時“創発”が起こるのだ。
だから創造性を発揮しようと思うなら、ガラクタに目を向けること、不可解なものを凝視することが必要なのだ。また、いつものパターンから抜け出して、サリエンスネットワークを解体・再構築することが大切だ。

無意識にやっている動作を〈探索〉して再構築する

さて、このことを演技に当てはめてみよう。
多くの役者は何か特別な動きや感情のところで意味を持たせようとするが、その動きには初めから意味が付与されているので、そこであれこれやりすぎるとそれは意味の過剰に陥るだけである。
そうではなく、歩くとか座るとか、そういった無意識的な動作を一度解体して再構築してみるのはどうだろうか。
映画『ユージュアルサスペクツ』のケヴィン・スペイシーは足が不自由な設定で常に足を引きずって歩いているが、そのことがあの人物の異様さを醸し出している。
「歩く」動作を異物化して見せることは、観客の無意識に働きかけるということにもなるのだ。
観客の無意識に働きかける。このことが、非常に重要である。

意識と無意識の反復横跳び

前回の話と今回の話をまとめると、演技するに当たって、意識しなければできない動きやセリフは反復して練習することによって無意識化しておくことが大事で、逆に無意識にできてしまう動きほど一度意識化して再構築するのが良いということになる。そして当然、再構築した動きが再び無意識にできるようになるまで反復する必要がある。
つまり、意識化と無意識化を常に行き来して演技を作ってゆくことが大切なのだ。

さて、まだまだ無意識の話は終わらない次回からは無意識のより深淵な部分についての考察に取り掛かろうと思う。

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