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『演技と身体』Vol.24 感情と身体③ 関係を表現する

感情と身体③ 関係を表現する


想起されるイメージに反応する

前回までの内容で、感情を〈①没入的な感情〉・〈②想起的な感情〉・〈③非状況依存的な感情〉の三段階に分けた上で、〈①没入的な感情〉と〈③非状況依存的な感情〉が演技において危ういものであることを説明してきた。

すると必然的に〈②想起的な感情〉が演技での本位になることになる。
改めて説明をすると、〈想起的な感情〉とは例えば暗闇の中にいて、しかし暗闇それ自体をではなく、そこから想起されるイメージ(誰かに襲われるなど)を恐がるような状態である。
これを演技に置き換えると、例えば相手の言い方や振る舞い方が纏うイメージに対して心を働かせるということになる。そう言われてみるとなんてことはないのだが、注意しなくてはいけないのは、相手のセリフの意味内容よりもその抑揚や強勢などのニュアンスや雰囲気に対して反応をするべきだという点である。セリフの意味内容に反応することは、先の三段階で言えば③の〈非状況依存的な感情〉の働きになる。
第12回の記事でも書いたが、コミュニケーションの本質は意味の応答なのではなく、イメージの応答なのである。例えば、言語の通じない相手とのやり取りを想像してみよう。言葉は理解できなくても相手が困っているのか、怒っているのか、友好的なのかを身振り手振りから想起されるイメージから理解することができる。人間同士だけじゃない。人間はしばし犬やチンパンジーなど異種動物とのコミュニケーションをするが、それが可能なのも、実際にはコミュニケーションが言語レベルではなくイメージレベルで行われるものだからなのだ。
逆に言えば、言葉の上では良いことを言っていたとしても当人が想起させるイメージが退屈では誰も話を聞いてくれないものだ。学校の集会での校長の話は総じて退屈なのはそのためだ。また説教が総じて意味をなさないのも同じ理由による。説教は態度それ自体に攻撃的なイメージがつきまとっている。だから内容としては当人のためを想っているのかもしれないが、イメージレベルで攻撃をしてしまっているがために当人には決して届かないのだ。おそらくこの文章もそうだろう。内容はよく読めば肯けるところがあるはずだが、読者に対する優しさが感じられないかもしれない(ごめんね)。
とにかく一度まとめると、演技においては意味内容よりもイメージに対して反応すべきなのだ。ではなぜそう言えるのか、もう少し深堀りしてみよう。

“探索”によって関係を表す

最初の例に戻ろう。「暗闇それ自体ではなく暗闇が想起させるイメージを恐がる」という時に何が起こっているのか。暗闇に対する身体知覚的な“探索”である。暗闇から「誰かに襲われるイメージ」を想起するということは、暗闇という対象を身体を通して探索して予測を立てることであり、それに対して恐怖を覚えるということは、そうした予測に備えるという生命としての生存戦略なのである。
生命の進化上なぜ感情が備わったのかを考えると、それが生存に有利に働いたからに違いない。そして生き抜くためにはまずもって“今ここ”の環境との関係を探索し反応する必要があったわけだ。それは社会や言語が高度に発達した今も変わらない。相手の言っている“内容”がどんなにもっともらしくとも、嘘をついていることもある。そんな時、“内容”ではなく“イメージ”から相手を探索し、信頼するべきかどうかを判断しなければならない(そしてその判断は主に内臓で行われている)。
逆に言えば感情というものは、探索した相手との関係を表すものであり、決して自己表現ではないのだ。だから、“今ここ”において相手との関係の回路が断たれていないことが重要なのだ。

役に変身するのではなく作品の中に溶け込む

“今ここ”における相手との関係を探索するということを別の側面からも考察してみよう。前回の記事「変身/ミミクリー」「模倣/ ミメーシス」の違いを説明した。改めて説明すると、「変身/ミミクリー」とはイモムシがサナギになってチョウになるような変化の過程であり、「模倣/ ミメーシス」とは動物が周囲に擬態するような変化を指すものであった。演技においては「変身/ミミクリー」よりも「模倣/ミメーシス」をするべきだというところまでは示唆しておいたが、この点について関係の探索という観点から考えてみよう。
「変身/ミミクリー」について別の例を出すと、チョウの中には毒をもっている種がいて、それらは自分が毒を持っていることを敵にアピールするためにわざわざ派手な模様をしているのだという。さらに、チョウの中には実際には毒を持っていないのに毒を持つチョウの模様を真似ることによって敵を遠ざけようとする種もいるらしい。これらはいずれも「変身/ミミクリー」の例である。
他方「擬態/ミメーシス」の例としては、タコなんかがわかりやすい。タコは身体の色を変えて砂などに擬態をするのだが、驚くことに砂の色が変わるとそれに合わせて自分の身体の色も調節して同じ色になってしまうのだ。
さて、上の二つの例を比べてみよう。まず「変身/ミミクリー」だが、チョウの模様はチョウ自身の自己表現ではあるが、自己完結的である。これは演技に置き換えても同じことが言える。役に没入してなりきるということは、その役の表現としては優れているが、自己完結的であり、周囲との関係を表現することができない。そして、感情とは自己表現ではなく周囲との関係の表現なのであった。
他方、「擬態/ミメーシス」の場合はまず環境を探索してそれに溶け込むとうプロセスがある。環境の方が変われば自分も変化をするのだ。演技に置き換えても同様である。役に変身するのではなく、作品の世界の中に溶け込むのがミメーシスだ。相手の反応に合わせて自分の方もいつでも変化する準備をしていなければならない。「変身/ミミクリー」の方が閉鎖系だとしたら「擬態/ミメーシス」は開放系ということができるだろう。
そして「擬態/ミメーシス」は、感情の段階で言えば、周囲を探索するという点で〈②想起的な感情〉に最も近い。

高次の感情表現

とは言え、人間特有の 高次の感情があるのも確かである。言葉の意味の交換の中で生まれる感情というものが確かにある。
しかし、それをただ頭の中の記憶や想像だけに頼って表現してしまうと演技としては物足りないというのは前々回の記事で書いた通りである。ではどうするのか。
まず結論を述べると、身体的な傾向とのミスマッチを引き起こすのだ。
例えば憂鬱な気分の時には、誰かが話しているのを見ただけで自分の悪口を言っているのではないかと不安になることがあったり、人の優しい言葉を攻撃的なものと解釈してしまうことがあったりするが、この時起こっているのが因果関係のミスマッチである。
通常であれば、人が優しい言葉をかけてくれればその人が持つ優しいイメージに身体が反応して胸がいっぱいになるし、攻撃的なイメージを感じ取れば身体が反応して胃がすくむ。ここには相手の発するイメージと身体の反応に正しい因果関係がある。
しかし、憂鬱な気分の時には相手の発するイメージよりも身体的な傾向が先にある。具体的には内臓が不活性だったり自律神経が失調気味だったりするわけだ。そういう身体的な傾向を持つ時、脳は誤った因果関係を結んでしまうことがあるのだ。相手が何気なく発した言葉のイメージを自分のネガティブな身体的傾向の原因であると取り違えてしまうのだ。
ではそうしたミスマッチを演技に利用するというのはどのようなことなのだろうか。上の例でわかったのは、ミスマッチが起こるのは身体的傾向が先にある時であった。つまり、言葉の意味内容があってそれに反応して身体変化を起こすという順番ではなく、身体的傾向を作っておくことで自発的に言葉の意味内容(が持つイメージ)との結びつけが起こるようにするのである。身体的な傾向を作ることは身体技術によって可能である。演技が技術ならば、ただ感じたままでやれば良いというわけにはいかない。それがどう形に現れるかというところにまで責任を持たなければいけないのだ。
それは確かに、現実の感情のリアリティとは違うかもしれないが、身体性を伴うという点で感情の実感としては嘘のないものになるのではないかと思う。

以上、3回に渡って感情と身体の関係性を論じてきた。ともかく言葉よりもイメージが大事ということに尽きる。

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