『演技と身体』Vol.40 無意識の話⑧ 言語構造から抜け出る
無意識の話⑧ 言語構造から抜け出る
前回は、言語構造を抜け出た世界や個人的な無意識の外にある自他の区別のない世界(集合的無意識)に足を踏み入れた状態について話したが、今回はそのような「恍惚」状態に到達するための演技の方法論について考えていきたい。
言語レベルでの自己を放棄する
無意識状態を表面化させるには意識の働きを低下させる必要がある。
Vol.37、38の記事では、言語構造の中にある無意識の層を意識することによって意識の働きを低下させる方法を考えたが、それだけではまだ言語構造から抜け出せてはいない。
言語構造から抜け出て「恍惚」状態に至るためには、脳の言語中枢の働きそのものを低下させる必要がある。
そして前回説明した通り、言語レベルで規定されている自己のアイデンティティを捨て去って、自他の区別のない世界に片足を踏み入れるのだ。
では、言語中枢の働きを低下させてアイデンティティを放棄するための方法には何があるだろうか。
瞑想的アプローチ
その一つは瞑想である。瞑想は呼吸を通じて自分の内臓感覚にアクセスする方法である。そして内臓感覚こそが、自己感覚(自分が自分であるという感覚)の原形なのであった。すると、呼吸のみに集中するということは、自己意識を最小化していくという作業に他ならない。そうやって、自己意識を最小化してゆくと自ずと言語中枢の働きは低下してくる。
もっともこれには修練が必要ではあるが、毎日15分でも座って瞑想を続けるだけでも効果が期待できる。
修練を重ねて瞑想状態に入りやすくなれば、もはや座っていなくても、つまり演技をしている時でも、瞑想的無意識状態(=「恍惚」状態)に入ることができるようになるのではないかと思う。
有限の中に無限を見る
「恍惚」状態に入る方法は他にもある。
例えば、空を見上げて雲の流れをひたすら眺め続ける。風に揺られる木を凝視し続ける。目の前に石を置いてそれをひたすら見つめる。一言も喋らずに焚火に見入る。あるいは浜辺に打ち寄せる波を、川の流れを、揺らめく水面の光を、お香が短くなってゆく様を一心に観察し続け、自分がその中に入り込んでしまうのだ。
上記に挙げた現象には永遠が含まれている。だから、自分を捨ててそれを見つめ続けていると個体に宿る時間感覚から解放されて、永遠(=集合的無意識)に自分が入り込んでいく感覚になる。
永遠が含まれているとはどういうことなのだろうか。
例えば、僕は池のそばに植えられた桜の木にいつも永遠を垣間見る。それらは、池に向かって体(木の幹)を乗り出して、ほとんど池に落ちてしまいそうな体勢をしていて、それでいて枝葉を太陽の方に向けて上向きに思い切り広げている。それをじっと見つめていると、一見するとものすごくユニークで一回性を感じさせるこの木の形が、実は永遠に繰り返されている運動を表しているのではないかと思えてくる。
その桜の木を一度引き抜いて、全く同じ所に桜の木を植え直したと想像してみよう。新しく植えられた桜の木はどのように生長するだろうか。それは以前そこに生えていた桜の木とほとんど同じ軌跡を辿るのではないだろうか。
一本の桜の木を見つめ続けていると、それが形ではなく運動(生長の軌跡)として見えてくる。形は有限だが、その運動は時間や場所を超えて無限に繰り返されてきたものだ。
何か一つのものを見つめ続けるということは、形(有限)とパラレルに存在する無限を見るということである。
人はまず何かを見るときその図(形)に注目するが、見つめ続けるうちにその中にある地(質感・色など)や運動性が浮かび上がってくる。
目の前に石を置いてそれを見つめ続ければ、形(図)は沈み質感(地)が浮かび上がってくる。すると、ありふれた石が全く不可解な何物かに見えてくる。その不可解さに完全に身を委ねてしまうこと。それが「恍惚」状態だ。目の前にある不可解な何物かを言語レベルで捉えることはできず、それに身を委ねる際に言語を放棄せざるを得なくなるのだ。
演技においても同じことが起こりうる。つまり、自分を捨てて相手の中に完全に入り込んでしまうのだ。形の奥にある永遠を見つめるのだ。目の前の人間を形として見ることをやめ、その中にキラリと光る不可解さを見つめ続けるのだ。
呼吸からのアプローチ
少し荒っぽい方法としては、呼吸を止めてしまうというものも考えられる。呼吸を止めてしまえば脳の活動は低下する。止めないまでも、細く幽かな呼吸をすることによって演技中の自分の状態は大きく変わる。どちらにしても、やってみると難しいが、練習によって無理なくできるようになるだろう。
Vol.32の記事でも説明したが、呼吸を止めるのにも、吸って止める「保息」と吐いて止める「止息」とがある。はっきりとした根拠があるわけではないのだが、「恍惚」状態を導くのは止息時にそのまま呼吸を止める方なのではないかと考えている。
自律神経のモードに照らして考えると、吸気が優位の呼吸は身体の活動性を高めて交感神経優位の闘争/逃走モードに入りやすくするが、闘争/逃走状態というのは「忘我」の状態に近い。他方、呼気優位の呼吸は副交感神経優位の状態の一つである交流モードに入りやすくする呼吸である。今目指している「恍惚」状態は、交流モードの極とも言える。これははっきりとした論拠にはならないが、感覚的にも止息時の方が相手に入りやすくなるような気がする。
呼吸を止めて1秒真剣な目をする
先ほどの話と合わせると、止息のまま相手や対象にじっと見入ることで、自他の区別は曖昧になり、相手と繋がったような感覚が得られやすくなる。
アニメ『タッチ』の主題歌に「呼吸を止めて1秒あなた真剣な目をしたから、そこから何も聞けなくなるの星屑ロンリネス」という歌詞があったが、これはまさに無意識レベルでの交感が行われているのであり、言語構造から抜け出ているのだから「何も聞けなくなる」というのももっともな話である。
「呼吸を止めて1秒真剣な目」をしてみるのは案外使えるのかもしれない。
このように、脳の言語中枢の働きを抑えることで、身体を特殊な状態に持っていくことができる。
仏教では他力本願という考えがあるが、あれは人任せということではなく自己意識を手放して流れの中に溶け込んでいこうという考えなのだと思う。
ただ、まだ課題が残る。セリフを喋る時に意識を手放すことは可能なのか。セリフは言語である。言語を喋りながら言語構造の外の無意識に触れるなんてことができるのか。可能性の上ではできると思う。それは声の“響き”に秘められている。次回に持ち越そう。
※【公演情報】10/27~30 初の舞台演出作品『相対性家族』が上演されます。
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「うちの夫、わたしから見たらスローモーションなの」
「うちの次男ときたら、まるで逆再生しているみたいだ」
「。よだり送早らた見らか僕、はんさ母」
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劇団一の会
Vol.52 相対性家族
作・演出:高山康平
@ワンズスタジオ
出演: 坂口候一 熊谷ニーナ 玉木美保子 川村昂志 粂川雄大
桜庭啓
大平原也(A) 梅田脩平(B)
10月 27㈭19時(A)
28㈮14時(B)・19時(A)
29㈯13時(B)・18時(B)
30㈰ 13時(B)
ご予約: https://www.quartet-online.net/ticket/sotaisei?m=0ujfaee
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