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三浦しをん『エレジーは流れない』を深読みする

 三浦しをんの最新作『エレジーは流れない』を読了。爽快感たっぷりで最高に面白い本でした!

 舞台は海と山に囲まれた餅湯町という温泉街。そこで暮らす男子高校生の怜が、自身の複雑な家庭事情や将来の生き方に悩みながらも、自由奔放なクラスメイト達に振り回されるドタバタな暮らしの中、少しずつ友情や愛情の在り方に気づいていく。そんな青春群像劇です。

 物語そのものが、青春満載、愛情満載、さらにはおバカな面白さ満載で、読み終わった後もこの世界に浸っていたい、と思える作品です。
 登場人物の人柄や世界観そのものを味わうことが本作の醍醐味だとは思いますが、今回は「深読みする」ということで敢えて『エレジーは流れない』を、“人間の敵対関係と協力関係の形成”という観点で考えてみたいと思います。以下、ネタバレあります。

 本作では、穏やかな人々の生活が描かれていますが、同時にその中で発生する微妙な人間関係の歪みだったり、その歪みがある事をきっかけに解消されていく様子が描かれています。
 その様子を見ていると、敵や仲間の関係って絶対的なものではなく、変化していくものなんだなという事を感じます。
 たとえば、餅湯神社を隔てて、海側に位置する餅湯町と、山側に位置する元湯町には微妙な軋轢があります(この軋轢は新幹線駅を誘致した時代からあるものらしいですね)。その軋轢は、餅湯高校の学校生活にも影を落としており、生徒達に悪意はなくとも、餅湯町に住む生徒と元湯町に住む生徒と間になんとなく隔たりがありました。しかし、餅湯高校の生徒達が修学旅行で行った唐津で、現地の高校生と喧嘩が勃発したことをきっかけに、この隔たりは解消されることになります。
 敵対関係にあるものは、それよりも大きな次元において立ち向かうべきものと遭遇した時、初めて味方になる、という人間の習性とも言える基本構図が浮かびます。

 他にも、“15号”こと岩倉重吾の到来をきっかけに、餅湯商店街の人々が一致団結する場面(餅湯商店街は特に対立していたというわけではありませんが)や、パリからの団体客による「もち湯ちゃんストラップ特需」によって、餅湯町の怜と元湯町の藤島が協力する場面があります。怜が、もち湯ちゃんストラップの一件から餅湯温泉の発展をささやかに夢想するなんていう場面もありました。
そして最後には、唐津で闘った黒田くんが、なんと餅湯までわざわざ遊びに来てくれるのです。
「昨日の敵は今日の友」という言葉がありますが、まさにそれを体現しているかのような物語だと感じました。

さらに、敵対関係から協力関係への発展において大事なスタンスを、この物語は教えてくれています。
それは、作中で何度か登場する「家を出たら七人の敵がいる」という言葉に対して、伊都子や寿絵が否定するところにあると思います。
 そもそもこの言葉は「男は敷居を跨げば七人の敵あり」という古いことわざからの引用で、世の中にはたくさんの敵や競争相手がいるから常に心構えしておきなさいという意味が込められています。
 しかし、伊都子に言わせれば「家を出たら友だちやまだ見ぬ人に会える」であり、寿絵に言わせれば「迷惑なんてかけあえばいいってことだよ」なのです。
 社会は敵だらけではなくきっとたくさんの味方がいるはずだ、という心の持ち方ですが、この心の持ち方が餅湯の街全体を表しているようで、だからこそ餅湯の人たちは皆んなが助け合って生活できているのだと感じ、微笑ましい気持ちになります。

 さて、その昔、戦国時代の日本は、国内で覇権を争っていました。しかし1853年、黒船がやってきて、国内で争っている場合ではなくなりました。
 しかし今度は国家・民族間での争いが多発するようになり、その争いは現代も収束していません。
 世界が本当の意味で“仲間”になるためには宇宙人でもやってくるしかないのでしょうかね。一方で、新型コロナウィルスという未曾有の危機に晒されている全世界。それ以外にも地球温暖化をはじめとする環境問題は山積しています。これは全世界が力をあわせて立ち向かうべきものだとも言えます。

 現在を生きる人々は、個々人が自分の権利や利益を必死に守り、誰かに後ろから刺されないようにと必死に身を守るスタンスが染み付いてしまっているように思います。『エレジーは流れない』に描かれた人たちに倣い、もう少し人が他人に対して弱みを見せ、お互いに冗談を言いながら助け合える、そんな世界のほうがいいのではないかな、そんな事を考えていると餅湯ってすごくいい場所だなと感じました。
「迷惑なんてかけあえばいいってことだよ」という寿絵の言葉、
「迷惑のかけあいが誰かを生かし幸せにすることだってある」という怜の気づきが身に染みます。

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