『初恋と不倫』を深読みする

脚本家・坂本裕二の『往復書簡 初恋と不倫』を自分なりの切り口で深読みしてみた。※ネタバレ注意です。あらかじめご了承ください。

『初恋と不倫』は「カルテット」「最高の離婚」などの人気ドラマの脚本を手掛けた坂本裕二が朗読劇として書き下ろした作品。2014年に中目黒・赤坂で舞台上演され、キャストには高橋一生、風間俊介、臼田あさ美など大物俳優が出演した。書籍版である本書はナレーションの無い書簡体形式(2人の間でやりとりされる手紙やメール)のみで繰り広げられているが、絶妙な会話のテンポ感やユーモラスかつ巧みな比喩表現がとても面白い。また、会話形式でありながら生々しい描写が読む者の心をえぐり、登場人物のダイナミックな空間移動や時間経過をも描写しているため、非常に深淵で複雑な世界観を表現している。
 物語は「不帰の初恋、海老名SA」と「カラシニコフ不倫海峡」という二編から成るが、それぞれの物語は互いに独立していて、それだけで完結している。しかしながら二つの物語の根底には共通して流れているテーマがあるように思う。それは生きる上で誰もが避けることのできない人間の根源的な悲哀、すなわち「自他が交換可能であること」「悲しみは連鎖するもの」という二つのテーマだと考える。これらの悲哀は、時代や場所を問わず存在していて、人間が社会で生きる以上、必ず体現されるものである。二つの物語はこれらの根源的悲哀に呑まれ苦しみながらも、生きる希望を見出そうとする男女の物語である。

1.自他が交換可能であることがなぜ悲しいか?

 二つの物語に共通するテーマは、幾度となく繰り返される次の言葉に表現されている。

「誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こるんですよ。川はどれもみんな繋がっていて、流れて、流れ込んでいくんです。」(不帰の初恋、海老名SA)
「世界のどこかで起こることはそのまま日本でも起こりえる。」(カラシニコフ不倫海峡)

 「不帰の初恋、海老名SA」では、団地の川に落ちて死んだ女の子の話が出てくる。話者の三崎明希はその事故について「その子じゃなくて、わたしが溺れてるパターンもあっただろうな」と発言する。そして後にも、三崎明希の婚約者である桂木良祐が書いた、狂気じみた手紙に対して「死ぬ人が簡単に交換できるように、その手紙を書いたのがわたしだったとしても不思議ではない」と言っている。彼女はこれらの交換可能性に対して「私でなくてよかった」という正の感情ではなく、「わたしだったかもしれない」と自分ではない誰かの不幸や悲しみを自分事として捉えている。偶然の要素が比較的高い事故に対しては、多くの人が事故のニュースを見て「自分だった可能性もある」という共感を抱くだろう。しかし、自発的かつ狂気的な行為に対して「自分だった可能性もある」と考える事について、「本質的な交換可能性」という概念を用いて考えてみたい。ここでいう「交換可能」とはどのような事を意味しているのか?
 たとえば、人は知識や技術に対して代替可能なものよりも代替不可能なものに価値を感じる。自分が身に着けるとするならば、出来るかぎり代替不可能な知識や技術を身に着け、自分にしかできないことをできるようになりたいと願う。しかし、代替不可能なものを身に着けたとして、その「代替不可能性」は生まれつきの才能や学習機会の有無によって決定されているのではないだろうか?
 つまり、自分でない誰かが、自分とまったく同じ境遇に生まれ、同じ身体的特徴で、同じ学習の機会を与えられたとしたら同様の知識や技術を手に入れることができたのではないだろうかということである。
 一方で、次のような反論が聞こえてきそうである。「私というものは、まさにこの見た目であり、1987年東京都で生まれ、知らない人と話すのが苦手で、甘いものが好きで、走るは得意だが球技が苦手で・・・これらすべての特徴が私であり、私以外の人と区別される要因であり、私が私であることの本質である」と。
 この意見はある意味ではもちろん正しい。しかしながら、それらの特徴は、偶然性にあまりにも支えられすぎていないだろうか。自らが意志を持って発する意見や行動だって、これまでのバックボーンや周囲の環境などの偶然性の連続によって形成された性格に依拠していると言えるのだから。

 そうだとすれば、自分という本質はどこにあるのだろうか?もし、身体的特徴やたまたま形成された性格に依存しない「自分」という本質が存在するとして、世界の中のいったい誰がその本質に気づき、見てくれているのか。もし誰もその本質を見ていない、あるいは見ようとしていないとしたら、自分と他者の間には本質的な違いがまったく無く、両者は同じ存在だということになる。
 以上の考察から、バスの事故を起こしたり、狂気的な手紙を書いた人は桂木良祐でもあり三崎明希でもあり、さらには玉埜広志でもあると。そして、誰かに降りかかった痛みや悲しみは、起きなかったとしてもそのまま自分の悲しみなのである。
 ちなみに、物語に登場する二人の女性は、この「交換可能性」の悲しみについて次のように言及している。

ありえたかもしれない悲劇は形にならなくても、奥深くに残り続けるんだと思います(不帰の初恋、海老名SA)
どこかで誰かが理不尽に死ぬことはわたしたちの心の死でもあるの(カラシニコフ不倫海峡)

 蛇足であるが、私は小学生の時にこの事について考えた事があった。それはいわば、嫉妬のようなものだったと認識しているが、クラスの別の子(ここではH君と言う)が、自分よりも多くのゲームを買ってもらっていて、性格も明るくて、そしてクラスの人気者だった。自分とH君の違いは何に起因するのか?ということを夜な夜な考えた結果、そこに本質的な違いはなく、家庭環境や身体的特徴や性格に依存しない魂の存在論的な立場からすれば、自分はH君でもあり、H君は自分でもあるんだという訳の分からない結論に至った。
 しかし、大人になるにつれて人間の知覚構造や知覚に関する哲学的諸問題に触れるにつれて、知覚世界における自他の違いは、世の中的にも未解決の問題であることが分かった。このことに興味のある方は、G8読書会の過去の選定本でもある『翔太の猫のインサイトの夏休み』という本を読んでいただければと思う。哲学の問題を、日常の出来事を例に平易な文章で書いていて、非常に読みやすい一冊である。

2.悲しみの連鎖性について

 二つの物語に共通するもう一つのテーマ「悲しみは連鎖する」ということについては、多くの説明は不要だろう。物語の中における象徴的な部分は以下の文章である。

メキシコで起きている問題は、日本の食卓に影響を及ぼすのです。ライムが売り切れなのは、メキシコの麻薬カルテルが原因なのであって、東急東横線渋谷駅ではありません。(カラシニコフ不倫海峡)

 誰も悪くないのに、悲しみというものは連鎖して、流れて、流れ込んでいくものである。
 またしても余談だが、中島みゆきに『悲しいことはいつもある』という曲がある。シングルではなく、ファーストアルバムに収録されたアルバム曲のためあまり知られていないが、この根源的悲哀をよく表しているのでこの機会におすすめしたい。

誰も悪くはないのに、悲しいことならいつもある。
願いごとが叶わなかったり、願いごとが叶いすぎたり。
誰も悪くはないのに、悲しいことはいつもある。
                                                                        (中島みゆき, 1971)

 歌詞はたったの三行だが、そこはかとない悲しみと諦観を、若干の可笑しみ(シニカル・嘲笑)を加えて表現しているところが素晴らしく、とても気に入っている。
 さてさて、閑話休題。
 これらの絶望的ともいえる二つの悲哀「交換可能性」と「悲しみの連鎖性」に対して、人はどのように生きていけばよいのか。その問いに対して二つの物語りはそれぞれの答えを教えてくれている。

3.人と血の通った関係性を築き、確かなものを積み重ねていくこと

 「不帰の初恋、海老名SA」は、文通を通して淡い初恋を経験した二人が、大人になって文通を再開し、それぞれが背負ってきた境遇の中で互いを巻き込みながら再び惹かれあう物語。ラストの1ページが、物語の冒頭部分に循環していて構成として非常に美しく、一方でもう過去にはもどれない切なさに胸が締め付けられる。
 言葉の表現力にただただ感心させられるが、その中でもとりわけ異彩を放っているのが「その人の前を通り過ぎるという暴力」という表現だと思う。これまで人に暴力など奮ってこなかった読者に対しても、自分事として感じさせる力がある。どこかで自分もこのような暴力を人にしてきたのではないだろうか、と。

ずっと何を見ていたのだろうと思います。僕は昔、三崎さんにしたことを橋本さんという女性に対して、そしてまたもう一度三崎さんにしました。それは多分、今適当に名前を付けてみると、その人の前を通り過ぎるという暴力。それは多分金槌で頭を叩くこととそう変わらないことなのだと思います。(不帰の初恋、海老名SA)

 ここには、話者である玉埜広志の自責と後悔が吐露されている。大人になった玉埜広志は、人を社会的役割や社会的出来事によって判断する人になってしまっているのである。このことは、久しぶりにメールを再開した二人のやりとりから感じ取ることができるだろう。たとえば、三崎明希の「玉埜くんは今どんな感じですか」という漠然とした質問に対して、玉埜広志は自らについては仕事や日常生活の話、三崎明希については過去の思い出話よりもバスの事故の話ばかり気にかける。そして、ショッピングセンタームラハマのことも忘れてしまっていて、二人の会話に微妙なすれ違いが生じていることに気づく。
 そんな二人も、小学生の頃に初恋という体験を通して、人の本質に近づくこと、魂と魂が結びつくという事を経験していたのだと思う。それは、自分が自分以外の何者でもなく、相手が相手以外の何者でもなく、二人の関係性が特別なものであるということを知る体験である。
 海老名サービスエリアでこしょうを全面的にかけて食べるしょうゆラーメン、ラジオ体操第一の腕を上下に伸ばすところ、レモンティー。これらの断片は、相手の好きなものを知り自分と重ね合わせることで、少しずつ相手の本質に近づこうとする行為であろう。
 しかし、それでも好みや性格ですら、完全なる本質と言えないと述べたのが上記である。(三崎明希は、バス事故を起こした桂木良祐が、にゅうめんが好きだった事や14という数字が好きだった事を知っていた・・・)
 玉埜広志と三崎明希は、お互いの好きなものを共有するだけでなく、かけがえのない体験を共有する。それは、海老名サービスエリアでこしょうを全面的にかけて食べたしょうゆラーメン、、ショッピングセンタームラハマの屋上で手を握った事である。
 交換可能性にあふれた社会で、交換不可能性を手にいれるために必要なこと、それは相手を心の瞳で見つめ、血の通った関係性を築くことだと、この物語は教えてくれていると思う。どんな事物も交換可能という悲劇の中において、確かな思い出をひとつずつ積み重ねていくことで、少しずつ二人の関係性を代替不可能な存在へと変化させていく。そうすることで結果的に自分が自分以外の何者でもなく、相手が相手以外の何者でもないという個人の独自性をも形成されるのである。
「心の瞳で君を見つめれば、愛すること、それがどんな事だか分かりかけてきた」と坂本九が晩年を以ってしても、「分かった」ではなく「分かりかけてきた」というくらい、その人自身を見つめるということは難しいことなのかなと思う。

最後に・・・

「カラシニコフ不倫海峡」の感想・詳細ついては、読書会にて・・。
そのほかにも、謎の人物である豆生田。豆生田という存在は物語においてどのような役割をしているのか、私はちょっと理解できない部分もあったので是非教えていただきたいです。それではまた読書会で。

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