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「コミュニティ」はもはや必要ないーSaaS型宗教の展開へ

「コミュニティ」はしばしば建築や都市デザインの文脈で頻出の言葉である。頻出すぎてもはや陳腐化してもいる。

最近、様々な地域コミュニティやコミュニティデザインの現場に出くわす機会があり、コミュニティという言葉を二つに分けて捉えるようになった。

コミュニティは「メディア」と「プラットフォーム」に分けられる。

メディア→情報の発信と受信
プラットフォーム→助け合いや相互扶助、協働のマッチング

という位置付けだ。

もちろん細かい役割は他にもあるが、コミュニティは大枠としてこの2つの機能を担っていたと考えていいだろう。

メディア的機能とは、情報の受信と発信だ。町内会の回覧板や互いの情報連絡、病院や子育て情報などの共有、あるいは体調の悪い老人の地域での見守りを指す。

プラットフォーム的機能とは、需要と供給のマッチングである。子供のちょっとした見守りをしてほしい人とできる人、服をあげたい人ともらいたい人、家電がほしい人といらなくなった人、ご飯を作りすぎて誰かにあげたい人とご飯をもらえると嬉しい人。あるいは地域の公園でヨガをしたいので、一緒にできる人を探したい人。

この2つの機能的側面を主軸として、コミュニティは求められてきたのではないか。

そもそものコミュニティの要請

コミュニティは、生活の機能を充足するために求められた、というのが僕の意見だ。

かつての成長社会において、日本では都市ー郊外モデルが発達した。郊外に居住地を作る。都心にビルを築き、人を集めて効率的に働かせる。

郊外と都市の間を、電車は大量輸送のピストンを繰り返し、機能的な労働が達成された。そうして日本は効果的な経済発展を実現した。

効率的な施策には弊害もあった。コミュニティ⇄郊外と都市モデルの中で、既存の町コミュニティが崩れ、冷たい街ができ、結果として生活が部分的に成立させづらくなった。

例えばちょっと子供を預けたいのにできない。体調が悪いのに頼れる人がいない。ちょっとした助け合いでお互いの生活が上手く回っていたのに、それができなくなった。

だから人々はコミュニティを求めた。機能的要請を地域内で完結させるための優れたアイディアだったからだ。

コミュニティを2つに分けて考えること

都市が発達するにつれ、コミュニティの機能的側面を代替できるサービスが普及するようになった。

Ubereatsで食事を取ることができる。子供を預けるサービスも普及しつつある。ちょっとした買い物も、Amazonを使えばどこでもできる。TwitterやInstagramを使えばかなりの情報が手に入る。家電も子供の服もメルカリで安く買い、高く売る。

コミュニティのメディア的機能とプラットフォーム的機能が新しい代替されていく中で、おそらく、2度目のコミュニティの崩壊が進んでいくのだろう。

そしてお節介なおばちゃんは、GoogleHomeに吸収されていくのである。

コミュニティから宗教へ

成熟社会では、人は機能以上のモノを強く求める。十分な量のパンではなく、「どこそこの誰々さんがどういうこだわりで作ったパンか」が重要になる。これはメディアもプラットフォームも同様である。

コミュニティが地域ベースのモデルから再度解体されれば、世界中の複数のメディアやプラットフォームに属して生活することができ、そこでは差別化が強烈に求められる。

メディアもプラットフォームも、機能的側面を超えたストーリーや価値観、信念や教義を孕むようになると宗教に近づいていく。機能を超えたストーリーへの要請。それは宗教に近づいていくはずである。

あるいは宗教という言葉が過激に聞こえるかもしれない。

宗教を「共通言語とカルチャーの醸成」と捉えてみたらどうだろう。

宗教では過激な教義や戒律、あるいは最終目的に目が行きがちだが(特にオウム真理教の事件以降の時代観は特にそうであろう)、少し見方を変えれば、「人々が人生における共通のカルチャーを有していた」と見ることもできるのである。

そう思っていたら改めて次のPelotonの記事が気になった。

Pelotonは、家庭内で使うエクササイズバイクを$2,295で販売。このバイクは、オンラインでエクササイズを受講できるサブスクリプションサービス($39/月)とセットで提供されています。
バイクは家庭で1人で使うものですが、カリスマ化したインストラクターが実施するライブクラスには全米からアクセスがあり、数千人が同時に受講します。他の参加者とリアルタイムで順位を競い合ったり、ペースを上げ下げすることで、”Peloton”(マラソン・自転車競技などの走者の一団、集団、グループの意味)を疑似体験できるようになっています。

Pelotonは、コミュニティのプラットフォーム的側面に演出を加え、ストーリーを加え、宗教にまで昇華させている。

すなわちPelotonの本質は「1人では気持ちが弱くて運動をハードに継続できないが、みんなと一緒かリードしてくれる人がいればなんとか続けられる人々のマッチング」であり、その「マッチングをいかに巧妙にデザインし利益につなげるか」という機能の宗教体験への昇華に集約されるのである。

Saas型の宗教へ

ここまで少し整理してみる。

・コミュニティは機能的にメディアプラットフォームという2つの役割を地域ベースで担っていた。
・様々な代替サービスの登場で地域内でのそれらの役割は薄れる。
・メディアとプラットフォームが乱立する中で、メディアもプラットフォームも”宗教化”しつつある。

ところでこの”宗教化”の特性として、僕は、単一宗教はこれからも流行らないように思う。そして宗教はSaaS型になる。

食事、子育て、働き方、教育、などそれぞれの領域でそれぞれの宗教に属すればいい

自分なりにSaaS型で提供される宗教を編集し、自分なりのライフスタイルを演出していく。これがこれからの時代の”コミュニティ”の変遷であろう。

絆はどこへ?

コミュニティを絆や繋がりと勘違いする人がいるようであるがそれは違う。

地震が起きた時に、地震前に繋がりがなかった人は助けないだろうか?

絶対にそんなことはない。

僕たちは同じコミュニティの中にも仲良い人と嫌いな人がいる。毎日会っていても挨拶もしない人もいる。実際のところコミュニティが絆を担保しているわけではない。マッチング機能がコミュニティに大きく依存していた時代に、コミュニティと絆がセットで語られるようになってしまったに過ぎない。

コミュニティの中に絆があるのではなく、絆は絆で、コミュニティとは別のレイヤーにあるものだ。そこを読み間違えて、絆=コミュニティとくくるから色々とややこしくなる。

絆と”コミュニティ”は違う。コミュニティが解体されても、教義が違っても、住んでいる場所が違っても、僕たちは絆を失うわけではない。

まとめ

・コミュニティは機能的にメディアプラットフォームという2つの役割を地域ベースで担っていた。
・様々な代替サービスの登場で地域内でのそれらの役割は薄れる。
・メディアとプラットフォームが乱立する中で、①自分たちが何者であるかを示す、②付加価値をつける、という観点から、メディアもプラットフォームも”宗教化”しつつある。
・宗教化したメディアやプラットフォームは単一のそれで縛られるのではなく、SaaSのように複数の宗教を選択してエディティングし、自分なりのライフスタイルを演出するのがこれからの生き方。
・絆と”コミュニティ”は違う。コミュニティが解体されても、教義が違っても、住んでいる場所が違っても、僕たちは絆を失うわけではない。

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石田 康平
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