現代版『方丈記』としての『PERFECT DAYS』とその音楽表現
はじめに
ヴィム・ベンダースにより監督された映画『PERFECT DAYS』は、東京に暮らすトイレ清掃員・平山の日常を描いた作品である。
劇中に登場するトイレは「The Tokyo Toilet」というプロジェクトの中で製作されたもので、これは渋谷区を中心として公衆トイレを美しくリデザインしていく取り組みとして展開されている。そこには槇文彦や安藤忠雄、伊東豊雄といった世界的な建築家や佐藤可士和などのデザイナーらが参画し、一般に汚くやや危険なイメージのある公共トイレのあり方を一新しようとしている。本映画の製作もまたそのプロジェクトの一つの取り組みとして位置付けられている。
本作品は主演を務めた役所広司さんがカンヌ映画祭で最優秀男優賞を受賞するなど世界的にも高い評価がなされているが、諸外国の評価の多くは「これはZen movieである」というような、日本的な世界観を単純に礼賛するものが多く見られ、平山の質素な暮らしぶりを「足るを知る暮らし」として憧れの対象であるかのように捉えたものが多い。どちらかといえばこの作品はそのような暮らしの孕む矛盾を炙り出しているところに面白さと迫力があると思うのだけど、その辺りにはあまり焦点が当てられていないようにも見える。
このnoteではその部分についてクリアに焦点を当てるために、まず『PERFECT DAYS』はヴィム・ヴェンダースなりの現代版『方丈記』であるという理解について述べ、その理解を補助線として映画をより深く読み解いてみたい。平山は鴨長明であり、本作品のテーマや登場人物の生い立ちは(意図したかどうかはさておいて)『方丈記』や鴨長明自身の生い立ちとはっきりと重なっている。だから『方丈記』の背景を深く知っていると、この映画がより深く読める(と思う)。このnoteではその辺りのことについて書いてみたい。
この映画はまだ上映中で、ネットでの配信などはなく、僕は2回しか見られていないので細かいチェックはできていないことには留意されたい。あと映画のストーリーやオチが出てくるので、ネタバレが困る方は避けられたし。
『方丈記』の中にある逃避としての無常観
はじめに、日本の中世文学の傑作である『方丈記』について少し振り返るところから始めてみたい。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」というあまりに美しい一文で始まる『方丈記』は、日本的な無常の価値観を美しく捉えた著作であると理解されることが多い。しかし実際にはそれは優雅な哲学書というよりむしろ、強烈な災害文学であって、自身の切実な身体的経験をもとに世界観を捉えようとするのが『方丈記』の基本構造である。このことはあまり一般には認識されていない。
『方丈記』の前半部分では安元の大火、治承の辻風、福原遷都、養和の飢饉、元暦の大地震という5つの大災害の状況が克明に描かれ、その悲惨な状況が生々しく記録されている。例えば「養和の飢饉」の際には、歩く人々が次々に倒れていき、乳飲み子が、母が亡くなったことに気づかずその乳を吸おうとする場面などが捉えられる。鴨長明はそのような凄惨な状況を数年ごとに経験し、世の儚さを嘆く。そして変わりゆく栄華に固執するのでなくむしろ都市を離れ、山の中に暮らし、日々の小さな変化に喜びを感じながら暮らすようになる。そして無常の概念について考えを巡らせるのである。
『方丈記』の著者である鴨長明は、もともと権威のあった下鴨神社の神職を承継する立場として将来を嘱望された存在であった。しかし権力を取り合う親戚との対立の中で最も望んでいた立場を得られず、それなりの職に甘んじることを拒否して、全ての職を辞して山の中に引きこもったのだった。『方丈記』が描かれた背景には、そのような彼自身の政治的な闘争に敗れた過去がある。つまり現実の問題として、鴨長明が隠居したのは災害だけが原因でもないのである。
隠居した鴨長明は山での静かな日々の生活に豊かさを見出し、充足し暮らしていこうとした。その態度は日本では「足るを知る」として礼賛される傾向にある。しかしその実、それはただの逃避でしかない。災害があり世は無常であるから、それを離れ、小さな世界に閉じ籠り生きようとする態度は、牧歌的にも見えるが、逃げである。そのことに誰より気づいていたのは、他ならぬ鴨長明自身であった。
だから『方丈記』の最後は、痛烈な自己批判で閉じられている。「お前は、見た目は聖人のようにしているが、その実、心は濁り切っている」と自己を激しく批判して文は閉じられるのである。変わり続ける世界と、変わらない自分だけの自由な世界のはざまで苦悩し、その矛盾に苛まれた男が鴨長明なのだった。
現代版『方丈記』としての『PERFECT DAYS』
『PERFECT DAYS』の主人公である平山は、ささやかな日常を楽しむトイレ清掃員である。その暮らしは静かで穏やかで美しい。しかし映画の中ではその彼の「ささやかさ」が破断して彼自身を苦しめていく。
映画は大きく分ければ2つのパートから構成されている。前半では平山の穏やかな日常が描かれる。彼は古い良さの残る東京の下町に暮らし、早朝から仕事のために首都高を走って渋谷へ向かう。車内ではカセットで音楽をかける。シフトとして割り当てられたトイレを掃除し、終わると夕方には家に帰って銭湯に行き、浅草の決まった店で決まった酒を飲み、夜は家に帰って本を読んで眠る。休日には洗濯をし、スナックにも向かう。それが彼の日常のルーティーンである。彼はトイレ掃除の日々の中で経験する小さな変化や出来事に慈しみと喜びを感じる。それは例えば小さな木の発見であったり、顔も名前も知らない誰かとの往復書簡的ゲームであったりする。
映画の後半ではその穏やかな暮らしが次第に崩れていく様子が描かれる。そのきっかけは姪であるニコの来訪であった。ニコの来訪ははじめ平山の生活に彩りを与えるが、彼の情けなさを暴き出すきっかけとなり、彼自身の生活が崩れだす合図のような出来事ともなる。
ニコの母である妹との関係を聞かれた際に平山は、「この世界は、ほんとはたくさんの世界がある。つながっているようにみえても、つながっていない世界がある」とニコに答える。これは一見物分かりのいい理解に見えて、世界が明らかに繋がっている事実から目を背けて逃避しているだけに過ぎないともいえる。
その後で「海に行きたい」とニコが話した際には「今度ね」とごまかし、ニコがお母さんに連れ戻される場面では、平山はニコを守ることもせず、抱えている問題に一緒に取り組んでやることもせず、「また来てもいいから」「(ニコが読みかけの本は)持っていっていいから」とニコを母の元へ返すだけの無様な体たらくを晒す。「あたし、ヴィクターみたいになっちゃうかも」とニコは平山に耳打ちするが、『11の物語』の「すっぽん」におけるヴィクター少年は高圧的な母親に我慢ならず刺殺する少年であるので、そこには冗談とも言えない激しさが垣間見える。それでも平山はニコを宥めて送り返すだけだった。去り際にニコからハグされ愛情を示された平山はその後自分の妹にもハグをし、涙を流す。そこには平山の自身の情けなさへの悔恨が滲んでいる。
ニコが帰った後、平山が話もまともに聞いてやらなかった若い同僚のタカシは突如として仕事をやめ、平山の世界はさらに乱されていく。平山は意中の女性を落とそうと努めるタカシにお金を貸してやり、そのことを愉快に思うなど、自分ではタカシのことを自身の日常を構成する面白い存在と眺めていた。しかしタカシの立場になって話を聞いてやることなどはせず、頻繁に話しかけてくる彼を平山はぶっきらぼうに無視するばかりであった。平山の自分中心の態度は、直接的か間接的かタカシの辞職を引き起こし、それによって彼の仕事のルーティンは崩されていく。そしてタカシがいなくなったことで、タカシが親しくしていた少年にも寂しさを与えることとなる。
物語の最後では、休日に通い詰めていたスナックの「ママ」が男性と抱き合うところを目撃してしまい、動揺して逃げるように店から離れる。ここでも彼の日常は崩れていく。動揺を宥めるように川沿いでひとり酒を煽り、タバコを吸っているところに、「ママ」と抱き合っていた男性が現れ、自分は末期癌であると告白される。死にゆく男から「あいつを頼みます」と言われた平山は「そういうんじゃないですから」と逃げるように答えるだけだった。死を目前にした人間からの発言もまともに引き受けられないところに、平山の幼さが現れている。
このように、映画の後半においてはニコとの時間、タカシの退職、「ママ」の元夫との対話を通して、平山の幼さ、情けなさが描かれていくのであるが、これは同時に、前半で美しく牧歌的に描かれた平山の日常が、いかに自己満足に閉じた視野の狭いものであったかが暴かれていく過程でもある。自分の完結した世界を守ろうとするだけの生き方が、未来(=ニコ)に対しても誠実たり得ず、タカシという現在すら守れず、「ママ」らの過去すらまともに引き受けられず、彼自身が変えたくないと願う日常が、むしろ彼自身の何も変えないでおこうとする態度によって壊されていくという逆説的な道筋が描かれているのである。
そしてラストシーンでは3分あまり、再び朝から仕事へ向かう車を運転する平山の真正面からの表情が流される。そこに平山の自己満足と情けなさへの悔恨との間の心の揺れ動きが、実に象徴的に表現され続ける。
車内のカセットからはNina Simoneの歌う「Feeling Good」が流れる。
カセットは変わらない日常を繰り返すことのメタファーである。それは一度再生すれば何度でも同じ過去の時間をそこに出現させ、繰り返し経験することができる。彼は毎日カセットから音を流すことによって、いつもと同じ「変わらない毎日」を繰り返そうとするのだった。そしてカセットから流れる曲の中でだけ平山は「新しい夜明け、新しい日々」を求める価値観を共振することができるのである。
しかし彼は、変わらないことを望んだのではなかった。自身の不安定な人生や境遇や何かを変えるために、変わらない世界を作ろうとしたのである。変わることと変わらないことの間にある強烈な矛盾は、元夫との対話において川辺でも示された。川の水面には、平山が自身の生活の定点とし続けてきたスカイツリーが映り、ゆらゆらと流されて揺れていた。それは『方丈記』の書き出しのオマージュでもあると同時に、平山の日常が脆く崩れてしまうことのメタファーでもあった。そしてそれらの矛盾の表現は、「無常」をただ礼賛するような価値観への批判でもあった。
自分が小さな世界を作り上げ守ろうとしていることは、ただの自己満足でしかないという自分への批判。しかしそれ自体が自分を守ってくれているのではないかという弁明。そしてそのような変わらない世界を作ることは、自分にとっての世界を変えるためにやっていることなのだという、変わることと変わらないことの間にある強烈な矛盾。自己批判と自己弁明と、未来への希望と未来への諦めが交互に入り混じる平山の正面のラストシーンはあまりに強烈で、映画館で観て僕は痺れて軽い過呼吸みたいになった。
平山と鴨長明の人物像の一致
平山には、『方丈記』の作者である鴨長明と通底する部分が数多くある。例えば平山は元々大変裕福な家の出身であり、父親との問題などを通して家を出て、自分なりの小さな変わらない生活を構築して暮らしていることが劇中で明かされる。これは神職をめぐる政治闘争に敗れ高貴な身分の家を離れ、人の少ない山里に居を構え、日々の小さな変化を楽しんだ鴨長明の姿と重なる。
あるいは平山は掃除道具を自作して毎日の仕事に取り組んでおり、仕事熱心であるとともに手先が器用な一面が窺えるが、これも音楽や和歌の名手であったとともに工芸の才にも溢れ、楽器なども自作した鴨長明と似ている(鴨長明は建物も自作していたとされる。ただし平山にはモデルとなる実際の清掃員がいたようなので、この方が自作していた道具を参照した可能性はある)。
加えて、鴨長明は山中の庵での暮らしにおいて「ひとり調べ(琵琶を弾き)、ひとり詠じて」心を慰めたのであるが、鴨長明が和歌と音楽で心を慰撫したように、平山もまた本と音楽で心を慰撫する。朝に車で聴く音楽と、寝る前の読書を心の癒しとして暮らしているのである。彼が週に一度古本屋に通い、文庫ばかり買って読むのは、和歌が短いものだからその軽やかなイメージと通底している気もしてくる。
何より、自分だけの小さな庵を作り、自分だけの生活に閉じて暮らそうとする態度は両者で明らかに共通している。あるいは自分に絶望を与えるいくつかの事件を経て自身の世界にこもった"鴨長明"の「その後」を描いたのが『PERFECT DAYS』であったということもできるかもしれない。
子供=未来が与える示唆の違い
一方で『方丈記』と『PERFECT DAYS』で対照的なのは、閉じた人間に対して子供がもたらすものである。
『方丈記』において鴨長明は、寂しい時に子供と関わって自分を慰めている。中段である十章には「また、ふもとに一つの柴の庵あり。すなはち、この山守がをる所なり。かしこに小童あり。時々来たりて、あひとぶらふ。もし、つれづれなる時は、これを友として遊行す。かれは十歳、これは六十。そのよはひ、ことのほかなれど、心をなぐさむること、これ同じ」という下りがある。つまり鴨長明にとって子供は寂しい時の遊び相手であり、友として彼を慰める存在として捉えられている。
一方で『PEFECT DAYS』において平山の姪であるニコは、むしろ平山の生活の情けなさと矛盾を暴くきっかけとなる存在である。ニコと平山が川を渡りつつ、橋の上から海を眺めるシーンは、「ゆく川」の先としての未来=海と向き合うメタファーと言える。そこで平山はニコから海を見に行こうと誘われる。海は川の行きつく先、すなわち未来である。平山は「また今度ね」とごまかす。ここでは未来に対する両者の態度の差が端的に示されている。ニコが積極的に未来へ向かおうとしたのに対し平山は逃げた。そしてまるでその対話を合図とするかのように、平山の日常は物語の後半にかけて脆く崩れていくのだった。
平山の影
一方で平山自身もまた子供のような一面を抱える存在として描かれていた。
タカシの意中の女性であるアヤから頬にキスをされた際には大きく慌てているし、姪であるニコが着替え始めるシーンでは慌て過ぎて階段から落ちている。朝の出勤前に飲む缶コーヒーはブラックではなくミルクコーヒーで、昼休みには小学生の給食のように決まって牛乳を飲んでいる(食べているものはフルーツサンドのように見える)。銭湯では顔を半分湯に沈めてぶくぶくと泡を立てることを楽しんでいるし、彼が饒舌に話すことのできるのは、ニコなどの子供とお母さん的存在であるスナックの「ママ」だけである。彼は大人とはほとんどまともに話すことができない。
清掃員のおじさんが昼に緑茶を飲み、夜にはビールを飲み、銭湯では「あぁ〜」と声をあげて湯に浸かる映画であったなら、『PERFECT DAYS』のもつ魅力的な不安定さは消失しただろうが、平山の不完全さと幼児性の表現は、わかりやすい表現に加えて、映画を通して見られた「影」への志向においても象徴的に表現されていた。
平山はトイレの掃除中には何度も影にうっとりする。あるいは彼はフィルムカメラを用いて仕事の合間に白黒の写真を撮っている。それを現像したのち、光それ自体の美しさが捉えられた写真は廃棄され、影の美しさを捉えた写真を保存する。夢のなかでも影のイメージを見続ける。影自体で世界が満たされる世界。影自体が像になり、それだけが本物でそれだけが全てになる夢の世界。彼は美しい影を求めて暮らしていた。
あるいはもう少しメタフォリカルな意味でも彼は「影」を求めていた。仕事の合間に集め、自室で育てている植物がそれである。彼は自宅の一室を怪しげな紫色の光で満たし、仕事中に街で拾ってきた植物を育てている。本来であればもっと大きく育ったであろう植物を世界から切り出し、部屋に閉じ込め、小さなコップで育てている。「影」はユング心理学において抑圧されたもう一人の自分を指す。大きく育つかもしれない可能性に蓋をして、自分だけの手によって管理された世界を作ろうとする平山に成長を阻害されている植物は、ほかならぬ彼自身なのである。
影へのこだわりは、スナックの「ママ」の元夫との対話の中で象徴的に露呈する。元夫の「影を重ねれば濃くなるか」という問いかけに対して平山は「そうでなくてはおかしい」と慟哭する。「何も変わらないなんて馬鹿なことがあるか」と激しく言葉を吐き出し、それを実証しようとすらする。「影」を求め集め続ければ、それは濃くなるはずと信じ、平山は影を集め続けている。影を重ね続けることで、濃い像=確固たる自分がそこに立ち現れてくるはずだと信じているのである。
影を求め愛することは、抑圧された自分を認め慰撫することでもある一方で、影を重ね続けることで濃い影が立ち現れるはずだと信じることは、確固たる自分を取り戻そうとする、いわば成熟を取り戻そうとする態度でもある。抑圧された自己を集め慰撫するだけの存在に見えた平山が、心のうちでは成熟を求めていることが、元夫との対話の中では露呈しているのである。
影を濃くするものは、強い光である。影を求めることは、光を求めることでもある。彼は影が濃くなることを求めているように見えて実際のところ、強い光を求めているのだった。木漏れ日の影を愛しているように見えて、彼は同時に木漏れ日そのものを愛し、それを生み出す光を求めていた。その両義性は、彼の生き方そのものである。変わらない世界を求めることそれ自体が自分の世界を変えることであるのだ、という平山の生き方が影への志向には端的に表現されているのである。
「足るを知る」かのように振る舞いつつも、彼は何よりも世界のポジティブな変化を求めている。しかしそのために積極的に周囲や他者に働きかけることはできず、自身の生活の閉じこもり、その矛盾の間で苛まれ続けている。その葛藤が激しく表出するのが、映画のラストシーンなのだった。その苦悩は「俺は聖人のように振る舞っているが心は汚れている」と自分を強く否定した鴨長明のそれとも深く共鳴している。
平山の矛盾を示す音楽表現
平山の抱えるこのような矛盾は、映画の中で音楽によって繰り返し象徴的に示されていた。
例えば映画の冒頭で初めにかかるThe Animalsの「The House Of The Rising Sun」はアメリカの伝統的フォークソングで、一見ポジティブなタイトル(「朝日の家」)に見えるが、The Rising Sunという娼館に落ちた女性の後悔の歌であると言われている。The Animals版ではそれが男性側の視点へと転換されており、少年院へ落ちた男の後悔の歌とされる。映画の冒頭で初めにかかる牧歌的な音楽が、実は少年院に閉じ込められた男の歌であることは、平山の生き方をただ肯定する映画ではないことを表している。
また、The Velvet Undergroundの「Pale Blue Eyes」も冒頭で美しく流れるが、
と表現されるように、手に入れた存在とそれが崩れていく様子に囚われた人間の歌である。
Otis Reddingの「(Sittin' on) The Dock of the Bay」の歌詞は、平山自身のようである。
『方丈記』が川の流れを見ていたのに対して、この歌詞では潮の満ち引きを見ている。ニコに「海に行こう」と誘われて平山が断ったことについて「平山は、川は見るが川の行先である海は見ないのだ」と書いたが、ひょっとしてかつて平山は海に行き時間を過ごしたのではないかとも思わされる。海に行っても何も変わらないことに気づき、川の先にある未来に期待を持てなくなったのではないか。「(Sittin' on) The Dock of the Bay」は大ヒットしたが、Otis Reddingはこの曲を録音した3日後に、曲のリリースを見ることなく飛行機事故で亡くなっている。
平山の休日シーンが初めて描かれる場面で流れるThe Kinksの「Sunny afternoon」は、お金も資産も全てをなくした人間が、最後に残ったのが日当たりの良い午後だけだった、という歌であり、タイトルは可愛らしいが内容は何も牧歌的ではない。
さらに何よりこの映画のタイトルとも通底するLou Reedの「Perfect day」はドラッグに溺れる人間が、女性とともに日常を離れ自分を離れようとする退廃的な日々の歌である(ちなみに「Pale Blue Eyes」の作者もLou Reedであり、平山がタカシに連れられて赴いたカセットテープ屋で眺めていたカセットもLou Reedのものであったので、平山はLou Reedのファンなのかもしれない)。
劇中で流れてくる曲はなんとなくポジティブな印象で、タイトルも「(Sittin' on) The Dock of the Bay」(港の波止場)であったり、「Sunny Afternoon」(日当たりのいい午後)であったり「Perfect day」(完璧な一日)であったり、表面的には牧歌的で良さげに見えるものが多いのだが、実際にはその内容は退廃だったり逃避であったり悲劇の曲であったりする。ここには平山の変わらない世界を求めるという生き方が、一見牧歌的に見えても実際は逃避でしかないことが表現されているとともに、そのような平山の生き方がむしろ平山の守りたい世界を崩していくという悲劇的な展開が示唆されているのである。
劇中、代々木公園そばのトイレで、使い方がわからなかった外国人に話しかけられて平山が無言で使い方を教えるシーンがあり、平山は難なく質問を理解して応答している。ここからは平山がおそらくは英語に通じており、おそらく曲の意味も理解していることが読み取れる。すなわち平山は自身の生活が逃避でしかなく、幼いものであることを、鴨長明と同じように誰よりも理解していたのである(ちなみに代々木公園そばのトイレは、近くにインターナショナルスクールがあることもあってか実際に外国人がとりわけ多い)。
一方で劇中の音楽として悲劇的な曲が多い中で、非常に肯定的な曲がある。それがラストシーンで流れる「Feeling Good」である。新しい夜明け、新しい人生、世界は素晴らしい、と歌う。それは平山の、「僕の世界はこれでいいんだ、これでいいんだ」と閉じた退廃的な世界を肯定しなおうとするような態度にも見えるし、あるいはカセットの中でしかそのように歌うことのできない平山の幼さが重ねて表現されているようにも見える。ラストシーンで流れるこの曲は映画全体のテーマを明確に提示しつつ、「お前らそれでいいのか?」と観客にも問いを提示しているようにも受け取れる。
ちなみに「Feeling Good」はもともと1964年に『The Roar of the Greasepaint – The Smell of the Crowd』というミュージカルのためにAnthony NewleyとLeslie Bricusseによって作られた曲であり、映画で流れたのはNina Simonによる後年のバージョンなので、元の過去作品(=『方丈記』)をオマージュして作品を作るという『PERFECT DAYS』それ自体の構造とも重ねられているのかもしれない。
光を求めて影を求める、世界を変えることを求めて変わらない世界を求める
ここまで見てきたように『PERFECT DAYS』の平山と鴨長明は共振し重なる存在であり、映画にはこれが現代版『方丈記』であると解釈できるモチーフが至る所に散りばめられていた。映画の前半は「The Tokyo Toilet」プロジェクトのための完璧なオートクチュールという感じであったのに、後半から一気にヴィム・ヴェンダース調になり、全てが最後のカットに集約されて終わるというあまりの構図の美しさに、僕は打ちのめされた。同時にそのシニカルなメッセージが、実は監督自身に向けられた自己批判でもあるのではないかという淡い期待と、自分にも向けられている気がする不穏さに動揺した。
平山の生き方は多くの人にとっておそらく憧れる生き方でもあり、自分もこうして生きられたらなあと思う側面がある。でもそれは世界で起こる様々なことや未来から目を背け、自分の世界に閉じこもることでしかない。そのような人間が世界の変化に立ち会う時、そこに立ち現れるのは情けないほどの無力さと情けなさであり、それは自分の世界に閉じこもることで得られた過去の小さな満足の集積全部を無価値化してしまうほどのものである。とはいえ僕たちは変わる世界の中でただそれに流されて生きていくことがいいとも思えない。あるいは強く世界を変えていくほどの気概と力もない。そのような「変わること」と「変わらないこと」の矛盾と揺れ動きの中で我々はどのように生きていけばいいのか。映画はその葛藤の中で時に自分を肯定し、時に自分を否定する一人の男を、ただ描いたのだった。
ラストシーンの平山はそのまま現代に生きる我々自身の葛藤でもあり、自身に降り注いでいる光そのものを受け入れることのできない我々への批判でもあるのかもしれなかった。
(終わり)
*ちなみにトップの画像は、劇中に登場したThe Tokyo Toiletのトイレを回り、平山の撮影していた代々木八幡の境内で木々を下から撮影したもの。