坂口さん
一人の恩人がいる。その人の名は坂口さん。
ノミヤマ酒販近くの工場に勤めていて、僕が生まれる前からノミヤマ酒販の角打ちに通って下さっていたお客さんである。
坂口さんは、ノミヤマ酒販の角打ちに来ると、甲類焼酎(無味無臭のただのアルコール)をお湯割りにして、缶詰をつまみに酒を引っかけて帰ってゆく。週6日間の営業日のうち、ほぼ毎日来てくれる生粋の常連さんであった。
7年前、僕が店を継いでリブランディングに着手していた頃、まずその一手として店舗のリノベーションを思案していた。
僕は店舗リノベーションの設計と同時に、自分が惚れ込んだ酒の造り手に会いに全国の蔵元を訪れていた。まだ見ぬ心あるお客さんに飲んでもらいたいと心躍らせていた頃の話しである。
僕は当時、商品の入れ替えが叶った際には、客層も自然と変わってゆくだろうと予想していた。
と言うのも、当時のノミヤマ酒販のお客さんは、酒に想いを馳せてというより、どの酒も同じ、例外なくいわゆる"アルコール"だったら何でもよい、というお客さんしかいなかった。
売り上げのほとんどは飲食店へのディスカウント卸だった為、そもそも店内に酒を買いに来られるお客さまは一日に一人いるかいないかという程度。角打ちスペースは近くの工場勤めの方々が帰宅前に一杯引っかけるような場所だったのだ。
酒ではなく"アルコール"を目当てに来ているお客さんばかりだと、必然的に店内はガヤついた騒がしい状態となっていた。
これから自分が売りたい酒に共感してもらえるまだ見ぬお客さんの事を考えると、必然的に今来られているお客さんとの間にアンマッチが生じてしまう事は容易に想像できた。
恐縮だが、アルコールだったら何でもいいと考えているお客さんは入店を断っていこうと考えていた。
そういった背景から、"アルコール"目当てのお客さんの温床であった角打ちスペースは、リノベーションの際にいっその事無くしてしまって売り場にしていこうと考えていたのだ。
ただ、リノベーションを思案しているタイミングで、ほぼ毎日来て下さる坂口さんが、何ゆえに毎日来て下さっているのか、この際質問してみようと思い立ち、いつものように缶詰をつまみに焼酎を飲んでいた坂口さんに聞いた。
「坂口さんってどうして毎日来てくれるんですか?」
すると、思いもよらない事に、いつも寡黙の坂口さんが急に涙を流しはじめたのだ。
いや、何か変な事聞いてすみません、という気持ちになっていた時、坂口さんが静かに口を開いた。
「恩返しが、出来とらんっちゃん」
「え?恩返し?」
「恩返しって何の事ですか?」と僕が聞き返す。
「大将に恩返し出来とらんとよ」
ハッとした。
大将とは僕の祖父の事である。僕の祖父はホントにザ•昭和の経営者(というより暴君)という感じで、発する言葉のほとんどがパワハラ、モラハラのような強烈な人物だった。
ただ、経営スタイルはどうであれ、酒販店として地場の礎をしっかりと築いた人物でもあったと思う。
生粋の親分気質で、気に入った人をとことん可愛がるような人だった。
そんな祖父に、坂口さんはとても可愛いがってもらっていたそうだ。
祖父は、僕が酒屋を継ぐ数年前に他界したのだが、実は坂口さんは祖父の葬儀にも通夜にも参列していない。
「俺は野暮な事は聞かんっちゃん」(当時祖父が亡くなった事を察して)
そう言って、いつもと同じように坂口さんは寡黙に酒を飲んでいたそうだ。
坂口さんにとって祖父はとても大切な存在であった。時には応接室に招き入れられて共に酒を酌み交わした思い出も語ってくれた。
つまりは祖父に可愛がってもらった恩返しで、坂口さんはほぼ毎日ノミヤマ酒販で酒を飲んで下さっていたのだ。
祖父への恩義に涙を流している坂口さんを目の当たりにして、僕は角打ちをなくすという選択を考え直す事にした。坂口さんというお客さんと同時に店が纏っている大切な何かをなくしてしまう気がしたからだ。
一方で、その一件があったとはいえ、自分がやりたい事を曲げるという選択肢はもちろんなかった。
ただ、坂口さんがこれまでと変わらず飲みに来ていただけて、これからお客さんになって下さる方にも入りやすい環境をつくっていきたかった。
そこで、いわゆるクリエイティブシンキングでどちらにも妥協しない解決策を0から1でつくってしまえばいいと考えた。
考えに考えた結果、売り場スペースと角打ちスペースの間に壁をつくる事にしたのだ。(これまでは壁はなく商品棚で少し区切られた程度だった)
売り場スペースと角打ちスペースがそれぞれ独立した空間になる事で、買い物にだけ来られたお客さん、飲みに来たお客さんがそれぞれの時間を愉しむ事ができる。
リノベーション後、我ながらこの選択が吉と出て、本当にたくさんのイノベーションが独立した角打ちスペースから生まれていった。
角打ちのメリットは具体的に挙げるとキリがないが、一番は何より売りたいお酒を実際に飲んでもらえる事だ。他には、飲食店さんとのイベント、お客さん同士の社交の場、蔵元との交流の場、ギャラリーとしての活用、試飲会、勉強会、などなど。
(※同時進行でモラルの低い方は入店をお断りしていった)
今となっては角打ちスペースのないノミヤマ酒販は考えられないほどである。
あの時、坂口さんに質問していなければ、祖父が坂口さんを気にかけていなければ。
偶然は必然だったのか。
必然の連鎖が小さな奇跡へと繋がっているような実感を持った最初の出来事だった。
当時を思い返し、今日は天国にいる坂口さんに献杯したいと思う。
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