見出し画像

時間を継ぐ

たしかに、いつの時代も我々人類は新しく「もの」をつくり続けてきた。人々の暮らしはものがつくり出し、つないできた。しかしいま、あまりにも過去を切り離したものの生産が蔓延し過ぎているように思う。このままでは人々の暮らしは、その背景にある文化や信仰から分断されてしまうのではないだろうか。すると当然、未来をも分断することになるだろう。時代を越える「もの」とは何なのか。「もの」が時代を超えるとはどういうことなのか。その問いと向き合いたくて、僕は自分の生まれた輪島という土地で、器の修復を先輩方から教わりはじめた。

実は僕は数年前に独学で金継ぎに取り組んでみたことがある。そして見事に大失敗。その取り返しがつかなくなった器をもって駆け込んだのが、今の師匠の工房だった。「いいけ、滉平君。最近は金継ぎゆうても、漆も金粉も使わんことや多なっとる。そんで納得できる人はそんでいい。でももし100年前に誰かや修復したもんをっちゃもっぺん直そうとするげったら、100年前とおんなじやり方で直さんならん。ほしたらまた、そっから100年はもつんや。かと(硬)すりゃいいっちゅうもんじゃねえげぞ。漆はしなやかやさけ、強いんや。人間の体と一緒や。自然素材は自然素材で直すんが、結局いちばん長持ちするんや。おれや死んでおらんなっても、またいつか誰かや継ぐことになるかもしれん。そんときに継ぎやすいようにしてあげんならん。継いで終わりじゃねえげぞ。本物の金継ぎ、教えてやるわいね。」ぐうの音も出なかった。自然素材である漆、米糊、木粉、砥粉、金粉で行う金継ぎは、一箇所で五千円ほどかかる。あのころの僕には五千円の器に同額をかけて直す意味が分からなかった。これくらいネットで調べりゃ自分でできるだろうと思っていた。インターネットは偉大だ。しかしときに情報を得ただけで傲慢になってしまう自分がいる。あたかも自分が体験したかのように脳が錯覚を引き起こす。実はまだ知識にすら成り得ていないのに。何と愚かなことか。ちなみにその取り返しのつかなくなった器はバラバラのまま保管してある。師匠は「ほんなもんもう治せんわいえ」と言い捨てるが、あの器がどんなに不細工になろうが僕の愛着は消えない。しぶとく交渉を続けてみようと思う。

形あるモノは壊れる。それは自然の摂理とも言えよう。できるだけ壊れないように丈夫に作ることはできる。しかしいくら丈夫だとしても、乱暴に扱えば簡単に壊れる。丈夫さにはキリがない。ということは、モノを丈夫たらしめるのは、物理的なものではないのかもしれない。「器を直してほしい」というご依頼の背景には、いつも物語がある。その器との出会い、過ごした時間、そしてこれからの時間。たとえ使えなくなったとしてと捨てたくないとおっしゃる方もいる。割れた器を継ぐということは、時間を継ぐ行為でもあるのだと実感する。物語を生み出すのはモノ自体ではなく、モノに触れた人の心だ。モノへの愛着だ。丈夫さをつくるのは愛着なのかもしれない。モノは物理的に存在していながらも、その本質は人の心の中にあるのかもしれない。目には見えない愛着が、人の心から心へと移りゆく。そうか、愛着は時空を越えるのか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?