同郷の星、有原航平。筆者の人生において、彼はどのような存在だったかを少しだけ語らせてほしい。②
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急げ、他校に奪われるぞ!如水館スカウトに有原航平を絶対に獲得しろと猛アピール、その結果…
平成18年(2006年)夏。世の中でハンカチ王子旋風が巻き起こっている頃、筆者は夏休みの間に航平本人はもちろん、航平のご両親やシニアの監督、コーチなどから情報収集した。といっても、単刀直入に如水に来いとは一言も言わず、野球を好きなのか、強豪校に進学する気はあるのか、すでに他校から話はあるのか、まずスカウトがその土俵に上がれる状態なのかをやんわり確認した。その結果はまだスカウトなどの話はないが野球は続けていきたいとの事だった。あの広陵ですら、まだ航平を見つけれていないのかと若干不安に感じたが、これで筆者が心置きなくスカウトに報告できると前向きに捉えた。そして短い夏休みも終わり、筆者は三原にある如水館へと再び向かった。
筆者は二学期が始まってすぐに職員室へ向かった。目的は勿論スカウト担当のH部長に有原航平という逸材を報告するためだ。一通り報告を済ませると、H部長はぼちぼちの感触だったが、試合がある土日にわざわざ広島へと赴くのは厳しいとの答えだった。そりゃスカウトだけで飯食ってるわけではないし、高校生一人の証言などなんの確証もないのだから無理は言えない。その場はおとなしく引いたが、このままでは他校に先を越されてしまうと内心焦っていた。しかし、意外にも早くそのチャンスは訪れた。
二学期が始まってしばらく経った9月中~10月頃の話だった。多分母親だったと思うが、筆者に連絡があった。週末に中学校の公式戦が尾道(覚えていないがとにかく尾三備後方面)であると。千載一遇のチャンスだったが、H部長の予定がこの週末に果たして空いているのか。一か八かすぐ職員室に向かった。なんと、奇跡的にH部長の予定は空いていた。しかも、ぜひ赴きたいとの返事だった。筆者は職員室を出て小さくガッツポーズをした。これで航平という存在が知られる。ここから如水館の歴史が再び始まるのだ、そう期待を寄せて胸高々に週末を過ごした。
週が明けて、筆者はすぐH部長のいる職員室に向かった。早速H部長に感想を尋ねると、いいね!すごく良かったよ!と言われ、筆者は満面の笑みを浮かべた。だが、次の一言に衝撃が走った。
「ただ、わざわざお願いしてまで来てもらうことは無いかな」
へ?…
筆者は一瞬頭が真っ白になった。
H部長曰く、如水館が広島市から離れていること、自身がスカウトした投手との出会いを引き合いにし、そこまでのインパクトはなかったとの事だった。
もともと勝機は薄かった。如水館は主に広島県東部(福山、尾道、三次など)を中心としたスカウト活動を展開しており、西側(広島市、廿日市市など)には積極的ではなかった。加えて広島市には強豪校が揃っており、同じ条件であれば、よほどの事情がない限り如水館は選ばれない状況にあった。どう考えても広島に住んでて、広陵などにスカウトされたらそっちに行ったほうが良いに決まっている。なので、広島市内にひしめく強豪校よりも早くコンタクトを取り、なお且つ”三顧の礼”とまでは行かないが、”有原航平がどうしても必要だ”という最上級の誠意を見せる事でしか勝機はないと考えていた。そこに筆者は関係なく、如水館高校としての対応だ。寧ろ筆者は邪魔な存在でしかない。そんな絵を高校3年生ながらに思い描いていたが、その幸先の良いスタートが切れたと思った瞬間、どん底に突き落とされたような感覚だった。如水館はせっかく掴めたチャンスを自ら手放したのだ。筆者は近い将来、必ず、確実に如水館は有原航平に苦しめられるだろうと思い、如水館が下した決断に絶望しながら職員室を後にした。
以後、筆者は航平に対して如水館を勧めることは一切しなかった。きっと広陵あたりが必ず航平を見つけてくれる。そう思いながら、切ない気持ちを心のなかに閉じ込め、日々を過ごすのであった。
ブルペンで投げている航平の横に見知らぬおじさんが…なんとその正体はあの名将!
平成19年(2007年)春。筆者は高校を卒業して春から大学生となり、航平も中学校3年生になった。この期間(高校の自由登校~大学1年生)は、中学校とクラブチームの両方によく足を運び、航平と一緒に練習した。筆者にとっては最高の練習相手だったし、航平にとっても、おそらく遠投80~90m投げて、120km中盤の速球を受ける事が出来る練習相手は貴重だったのではないかと勝手に思っている(笑)。アットホームな雰囲気で、指導者の方々も暖かく、部員達も気を使わず筆者に接してくれるのでなによりその空間が楽しかった。
そんなある日、いつもどおり中学校へ向かうと、なんだか緊張が走っているような、いつもと違う雰囲気を感じた。とりあえず足を進めると、ブルペンで航平が投球練習を行う姿を誰かが指導している。そんなOBが練習を指導しに来るような部活動でもないのに誰だよあのおじさんは?まったくやれやれだぜ…と思いながら近づくと、なんとそのおじさんはあの広陵高校の中井哲之監督だった。筆者は分かった瞬間、光の速さで引き返した。目の前に急に現れた名将に対して、どのように対応したら良いかわからず、部外者なのに挨拶に行くのもおかしいので、指導が終わるまで適当に時間を過ごした。中井監督が中学校を後にすると、すぐ航平や部員達から情報を集めた。どうやら今回の訪問は2回目だったようで、場も少しは落ち着いていたようだったが、筆者は全く落ち着いてなかった。なにより高校のトップが直接場に出向くという事実が衝撃的だった。筆者が思い描いていた誠心誠意ある対応を広陵が体現していたのだ。広陵からそう遠く離れていないのもあるとは思うが、このフットワークの軽さこそが今日まで広陵の伝統と力を維持し続ける力の源なのだなと感じた。
それから中井監督には1〜2回程遭遇したが、日に日に航平への指導に熱が入るのを見て、航平は広陵に必要とされる人物なのだと、筆者の目は間違ってなかったと証明されたような気がして嬉しかったが、同時にこれで確実に母校の芽が100%無くなったと、心の端にあった僅かな希望も消滅した事に少し寂しくも感じた。この中井監督との出会いが、航平にとってのターニングポイントであり、歴史的瞬間であったと思う。彼が挑む覇業への道が、今ここに始まったのであった。
遂に進路を決めた有原航平。彼の新たな挑戦が始まる…
筆者の記憶だと、航平はこの年の秋頃に進路を決めた。進学先はもちろん、広陵高校だ。彼の力を存分に発揮出来るベストな高校に決まったと筆者は思った。
ちょうど進学先を決めたこの頃、航平からなんとあの如水館から接触があったと聞きました。当然丁重にお断りしたようでしたが、今更何をしにきたんだ?と思いつつ、既に終わった話だったのでその話題を広げるつもりもなかったですし、それに関して俺は無関係だと、昨年まで熱心だった筆者が何故か身の潔白を証明するという少しおかしな状況になりました(笑)
この頃の航平はさらにスケールアップしていた。身長は180cmに迫り、球速もコンスタントに130km/hを超え、角度のある速球と、キレと緩急のある変化球をコーナーに決める繊細なコントロールも備えつつあり、まさに現在の投球スタイルに近いものがこの頃から出来ていた。ただ、航平一番の魅力はやはり”圧倒的未完成感”だ。この感覚は一年経っても依然輝きを放っていた。股関節の硬さやほぼ上半身だけを使って投げているなどの改善点はあるが、そのような課題を乗り越え、広陵高校で能力を開花させる航平が楽しみで仕方なかった。あの中井哲之監督なら必ず航平を上のステージへと連れて行ってくれる。おそらく1年生の夏には広陵のユニホームを纏って相手を完全に沈黙させているだろう。そんなイメージばかり抱いていた時期であった。
平成20年(2008年)4月。有原航平は広陵高校硬式野球部に入部した。携帯電話は入部の際に解約したので連絡手段はない。加えて筆者は広陵OBでもないので気軽に高校を尋ねることは出来ないし、情報が伝わってくることもない。なので航平の成長姿が確認できるのは公式戦のみ。筆者はその日を楽しみにしながら毎日を過ごすのであった。
長くなりそうなので、分割して記事を書こうと思います。誤字脱字、おかしな表現等は多めにみて下さいm(_ _)m
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