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ばあちゃんと、わたし〜はじめに〜

私のばあちゃんは、昭和1桁生まれだ。
第二次世界大戦をリアルで経験している。
B型で、昔ながらの考え方で、お人好しで、亭主関白なじいちゃんに逆らえなかった、普通のばあちゃんだ。
毎日仏壇に手を合わせ、畑の手入れと、孫やひ孫が遊びに来るのを生きがいにしている、普通のばあちゃんだ。
そんなばあちゃんと、私はずっと一緒に住んでいて、ほぼばあちゃんに育てられた。

文章にする上では、「祖母」と表記するのがいいのかもしれないけれど、あえて「ばあちゃん」と書かせてもらう。
「ばーちゃん」でもなく、「ばあちゃん」。
それが一番しっくりくる。そう呼んでいた。
幼い頃は、古い考え方を押し付けてくる(ように感じた)融通の聞かない(ように感じた)ばあちゃんを鬱陶しいと感じたこともあった。
みんなが「お母さん」にしてもらっていることを、私はばあちゃんからしてもらっていた。
当時はそれさえも「なんでうちはばあちゃんなんだ・・・」と思っていた。
ばあちゃんには、私のことわかるわけない、とさえ思っていた。
つい最近までは。

VUCAの時代、chatGPTの出現・・・。
昭和一桁のばあちゃんからの学びは、そんな時代だからこそ生きる。
この学びは、chatGPTからは得られないし、時代の先端を駆けているような人からも学ぶことはできない。
この学びに、あえて名前をつけるとしたら何だろうと考えてみる。
「価値観」というようなものの見方だけを指すようなものではないし、「古き良き時代」みたいな昔を押し付けてくるようなものでもない。
数年前から私が大切にしていることに、「余白」がある。
私が考える余白の定義については後述するが、その「余白」こそが、ばあちゃんから教わったもの、ばあちゃんからインストールされた、後付された遺伝子のようなものというか、とにかく私の中に芽生えて根付いたものなのだ。

言葉にすると、とても陳腐に聞こえるし、よくある話にも思えるかもしれない。
読者のみなさんにとっては、「何だ、そんなことか」と思うこともたくさんあるかもしれない。
だけど、大切なのはそれを以下に自分の中に普遍的なものとして取り入れられるかだと思う。
例えば、健康診断で引っかかったり、生活習慣病になったときに、医者から「適度な運動と、適切な睡眠、そしてバランスの取れた食事と、ストレスを減らして・・・」と指導を受けたとする。
そんなときに、99%の人は「そんなことわかっている」「言われなくても知っている」と思うだろうし、さらに言えば、「それができないから困っているんだ、だから(他の方法で)なんとかしてくれ」とさえ思うかもしれない。
だけど、そんな「わかっている」けど「できていない」から起こっている(健康診断に引っかかる、病気になる)ことに対して、その原因をわかっているのに対策をしない(できないと言い張る)ことで、自分を正当化し、「自分は悪くない。悪いのは環境だ。」としてしまう人が多い。
「なんだそんなことか。」は、一番の大切なことで、それができれば解決する(生きやすくなる)部分がたくさんある。

そんな、生き方の根本の部分を、私はばあちゃんから教わった。
ばあちゃんは、おそらくそのまた母親や祖母の影響を受けているのだろう。
そのまた母親の・・・と、長く引き継いできたものを無視し、「新しい考え方」「最新の技術を使って楽に生きる」みたいなことをしても、それは「その時」だけを良くする方法であり、「人生全般」を良くする方法ではないかもしれないのだ。
現代は、新しいものに囚われ、「受け継ぐ」という根本の部分を置いてきぼりにしていると思う。
時代が変わって適応しない考え方や技術は、その場しのぎだ。
だから、少し時代が変わると「今の時代に合わない」と、また新しい考え方や技術を生み出していく。
もっと根本の、人間として引き継ぐべきものを、きちんと引き継いでいれば人生のいかなるときでも「生ききる」ことができる。

私には運良く、「ばあちゃん」がそれを教えてくれた。
でも、すべてのひとに「ばあちゃん」がいるわけではない。
だから私はばあちゃんから教えてもらったことを一つでも多く、一人でも多くの人に伝えることで、世界中の人にばあちゃんからの学びを届けたいと思って、今こうやって書いている。

私がこれから伝えたいのは、ばあちゃんから受け継いだ「余白のある生き方」のヒント。
ばあちゃんから受け取ったたくさんの人生の贈り物を、お裾分けできればいいなと思っている。

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