父を見送る ~その1 発症から旅立つまで~
2023年5月8日 13時11分 父が息を引き取った。
1,000km西に離れて過ごしている私は事後に連絡を受け、その翌日、実家に引き取られて動かなくなった父の姿に対面することができた。
その後、葬儀社と打ち合わせをするも、火葬場の予定が詰まっている関係で、近親者のみで見送ることにしておきながら、初七日にあたる14日まで葬儀を執り行うことができなかった。
人の死は突然訪れるものだが、3か月ちょっと前から、この時が来ることを覚悟しながら過ごしていた。
パーキンソン症候群とわかり、母が実家で世話をするようになったのが7年ほど前のこと。そして、3年ほど前から介護認定を受け、ケアマネジャーの方や入浴サービスの方、そしてご近所の方など色々な方のサポートを受けてきた。その間、サポートと、投与した薬が奏功したこともあり、少しずつ症状は進行していたのだろうが、意識ははっきりした状態で過ごすことができた。
2023年の年越しは、帰省した私の家族の前で、用意された食事をしっかりたいらげたり、初詣にも、我々のクルマに同乗して一緒に神社で手を合わせたりすることができる状態だった。今から振り返ると、あの頃、最後の光を放っていたのかもしれない。
1月下旬に様子が急変。自宅で転んで立ち上がれなくなって骨折。それが収まったと思ったら、意識ははっきりしていながら血中酸素濃度が低下。以前にかかっていた医師に連絡を取ったところ「救急車を呼べ!」となり、病院に搬送された。
搬送された病院は、パーキンソン症候群発症の際にお世話になった場所。入院から1週間後、私も呼ばれて状況を聞きに行ったところ、もう家に戻すことはできない、という通告。積極的な治療は望まない、という、かねてからの父の要望を受け、その後は「終わり」に向けたケアを施すこととなった。
この時点で、「残された日は少ないな」と覚悟を決めた。
コロナ禍で面会は禁止。母が必要な物品を届けに行っても父の様子は教えてもらえない。「今どうなっているのかわからない」と、母は気をもんでいたようだ。大型連休で私が帰省した時も、父と顔を合わせることができずじまい。容体が急変し、当直の看護師の配慮で母が顔を合わせることができたのが5月7日。その翌日の「1分でも早く来て!」の病院からの電話に母が駆けつけるも、最期を看取ることができず、遺体を家に引き取る段取りの途中で私に連絡をする。そういう状況だった。
前もって段取りを組める慶事と異なり、弔事は突然訪れ、時間との勝負のような状態で色々なことをこなさなければならない。
それでも、今回の場合は、父による事前の意思表示があったため、それに従ってアクションでき、ほかの方のケースに比べればドタバタは少なかったのではないかと感じている。
ドタバタの少なかった要因について、次回以降の稿で書き留めていきたいと思う。