第11話 計算ドリル
「ただいまー」
奥から母の返事がした。私はいつも通り靴を脱ぎ散らかしてリビングを覗くと、母はソファで夕刊片手にくつろいでいた。
「ちょ、おかん聞いてや。どう思う?」
「それは災難やねぇ」
「やんなぁ!マジで意味わからんわ。…って、私何も言ってへんやんか」
「はっはっはー。何となく答えてみてん」
「何やねん」
部屋に荷物を置いて、リビングに入った。
「いや、あのな。今日現場に来てた16歳のとび職の男の子が、使ってる工具に付き合ってる女の名前彫っててん。別れたらどうするつもりなんやろな」
「そんなん、親方のカンナで削ったらしまいや」
「そういうもんなん?」
ふとテーブルを見ると大きな封筒が乗っていた。
「おかん、これどうしたん?”テキスト在中”って書いてあるけど、何か変なセミナー通ってるんちゃうやろな?」
「通ってへんよ。それは、通信教材」
「通信ならセーフとかないよ?」
冷蔵庫から麦茶のペットボトルを出して、ダイニングテーブルの椅子に腰かけた。ゴクゴクと音を立てて飲むほどに、一日の疲れが流れていく。
「あんた、靴下脱ぎっぱなしにしない。いつも言ってるやろ」
私は今まさに投げ捨てた靴下をしぶしぶ拾い上げた。
「ほんでな、そのテキストはあんた向けなんよ」
「私向け?いや、私別に何も頼んでないし、怪しいセミナー受けるつもりもないで?」
「まあ、開けてみ。仕事柄、あんたもよう使うモノや」
「よう使うモノ?何やろ…あ、一旦ありがとう」
恐る恐る封筒を開けて中のテキストを出した。A4サイズで、一般的な大学ノートくらいの厚み。表紙には、
「”計算ドリル 2 ”?」
「そう、計算ドリル。ほらあんた、仕事でドリルよう使うやろ?」
「それは電動ドリルな?穴あけドリルと計算ドリルの件は小学校で卒業するもんやねん。ほんで私はあんまり工具使わへんしさ」
「そう?似たようなもんやろ。あんた、これで計算の勉強しぃ」
「い…いやいやいや。おかん。私、こう見えても大卒超理系の現役設計士さんですよ?建設会社勤務5年目ですよ?前株上場企業ですよ?そんな私に”計算ドリル”?しかも”2”?え、何で?」
母は私の「?」マークにいちいち頷いて念を押すとため息をついた。
「これだから理系は…」
「は?」
「文章最後まで読まんと勝手に解釈する、理系の悪いところ出てるで。表紙のタイトル、ちゃんと読み」
「タイトル?」
私は改めて、そのテキストの表紙を見て、そしてそのタイトルを声に出して読み上げた。
「”女の計算ドリル 2 ”」
「そう」
母は今度こそ深く頷いた。
「あんた、どこからどう見ても女子力ないやんか」
母は私のことを上から下までじっくり見て言った。全く手入れしていない髪、すっぴんの顔、なすがままに日に焼けたこちらも手入れしていない肌、学生時代から着続けているヨレヨレの服。そういえばさっき脱いだ靴下は穴が開いていたっけ。
「わざわざ親に報告する義務はないけど、彼氏ができた試しないやろ?変な虫が寄り付かんのはまあいいんかもしれへんけども、残念ながら一周回って不健全の領域っていうか、正直、父ちゃん母ちゃんの老後よりも心配なのよ」
「…おぉう…」
ぐうの音も出なかった。
「外見を磨くのはファッション誌なんかを読んだらできるけど、内面を磨くのは難しいもんや。うん。せやからな、内側の女子力を上げれるモノを探してたら、このドリル見つけてん」
「あ、そ、そうなんや」
「いきなり全問正解は無理やろうから、晩御飯までに一問でも正解できたら、晩御飯のおかず一品増やしてあげるわ」
「マジで!?ちなみに、何増えるん?」
「酢だこ」
「酢だこ?…OK。やったろうやんか」
私はドリル片手に意気揚々と部屋へ向かった。
「す~は酢だこのす~」
鼻歌も混じる。部屋のドアを閉めた時、私は早速気づいてしまった。
「あ、靴下持ってきてもうた。…くさっ」
母の言い分は一理ある。確かに私は彼氏ができたことがない。欲しくない、いらないと思ったことはない。むしろ欲しいんだけれど、モテる兆しが全くもってない。アラサーに足を突っ込んでいながらこの状態は致命的だと気付いていた。でも自分を磨くのに時間をかけるよりは仕事に没頭したり、週末の休みは競馬場に通うほうが夢中になれる。第一自分磨きなんてどうやったらいいのか分からないのだ。靴下を放りだして、私は机に向かった。
問1 貴女は3対3の合コンに来ています。男性陣は、営業マンのAくん、美容師のBくん、公務員のCくんです。次の問に答えなさい。
(1) 全員が正規雇用の場合平均年収はいくらか
(2) Aくんは元野球部で3番ショート、Bくんは元サッカー部でフォワード、Cくんは元吹奏楽部でチューバ担当でした。3人の注目すべき筋肉はそれぞれどの部位か答えよ
「too difficult!! 何これ!?え、世の女子ってこんなとこ注目して計算して男捕まえてるの!?何それ、尊敬の塊やん!」
(3) 会場の面積を求めよ
「いや、図面なかったらプロでも解けへんわ!てか、会場の面積は女子力関係ないやろ。何やねん、不親切め…」
「晩御飯できたでー。おいでやー!」
最初の問題ですでにお手上げだった。頭を抱えて考え始めてどれ位経っただろうか。リビングから母の声がした。
「おかん、ご飯作るの早すぎるって…」
私はドリルを抱えてリビングへ向かった。そして何やらニヤニヤしている母に向かって
「おかん、このドリルやねんけどさ。これ、”1”からやらせて」
母はゆっくりと親指を上げた。
<END>
2019年9月25日 UP TO YOU! より
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