いいところは見ず悪いところを凝視する、という呪い

今朝テレビを見ながらふと「打ち込めるものがある人はいいなぁ」と口にした。
「そう?」と夫。
その時テレビに出ていた人は、打ち込める仕事があって自信に満ちていてとてもキラキラしていた。
「うん、夢中になれるもの、打ち込めるものがある人が羨ましい。私には何もない。」
そう答えると「うーん…」としばらく考えて夫は「でもこはるちゃんは金魚育ててるじゃない。」とまっすぐ私を見て言った。

「へ……?」

「白ちゃん(猫)もサビちゃん(猫)も育ててるし、サボテンも多肉もバラも育てていて、みんなちゃんとお世話してるじゃない。僕なんて何もしてないし何も趣味らしい趣味ないよ。」と夫。

何を言ってるんだこの人は……???

と思った。

だってそんなものは非生産的だし、誰のためにもならないし、何より人間社会において社会性ゼロじゃん。
そんなのただの私の自己満足で何のためにもなってないじゃん!

ととっさに思った。

「でもちゃんとみんな育っているのすごいと思うよ。」
そう言って夫は仕事に出かけて行った。

その後私は一人になって、さてと水やりでもするか〜と、ベランダや庭の植物たちに水やりをした。
そして水やりをしながらさっきの夫の言葉をふと思い出した。
そして思った。

ああそうか、これが「自分のいいところを認められず、悪いところばかりを見ている」ということか、と。

人間社会において、人として大人として女性としてそして妻として『あるべき姿』であること、そしてその立場としての職務を全うすること、が人に課せられた当然の使命であり、人の価値というのはそれらを全うした上でなおかつその中で優秀であるということだと私は信じていたのだ。


絵がうまいね

歌上手だね

面白〜い

優しい〜

そんなことだってひとつひとつ価値があることなのに、人に褒められてもいつも隠れてしていた悪い事を見つかったみたいに居心地が悪かった。
そして、こんなことしかお世辞のネタもなくてごめんなさい、本当にしなくちゃいけない事では褒めてもらえるような仕事ができなくてごめんなさい、なんかほんとごめんなさい…、いつもそんな風に思った。

私はいつも私のいいところや私ががんばってできたことには何の価値も見出せず、できないことややりたくない気持ちにばかり目が向いていて、自分は価値のないダメな人間だと強く強く信じ込んでいたのだ。

これは呪い。

母からの呪い。

何をしても褒めてはくれなかった母の呪いだ。

テストで100点をとっても運動会で1等になっても褒めるどころかその中に悪いところを無理やりみつけて貶されて私は育った。
だから私の中に「褒められる」という事がどういうことなのかという実感が育ってないんだと思う。

よくできたこと、うまくいったこと、いいこと、それらは当然のこととして置いておいて、「できないこと」「できなかったこと」「よくなかったこと」だけに注目するように私はできてしまっているのだ。

料理ができなくても掃除が面倒でも毎日一生懸命にお世話をしてきれいに咲かせたバラを誰かが褒めてくれたら「やった!」と思えばいいのだ。
あぁ…こんなことばかりしてるから家事がおろそかになるんだ……と自分を責めたり暗に人から非難されてると感じなくていいのだ。

そうか、
自分の良さを認められない、自分の価値を認められないということはこういうことなのか。
これまでたくさん本で読んで知識としては知っていたけれど、今日初めて実感できた気がする。
ヘレンケラーのウォーター並みの発見である。

これまで理屈は分かっていても、実感として感じることはとても難しかった。自分のいいところを認められた方がいいに決まってるけどそれができないから困ってんじゃん!!という苛立ちばかり募っていた。

今までも自分の好きなところはあったはずなのに、そこに自信もあったはずなのに、それらは「自慢できるもの」であって誰かに「すごい」と思ってほしいものであって、誰にも褒められなくても何の役に立たなくても自分が自分を好きなれるいいところだと心から思えてなかったんだろうなぁ。

そんなこと思いました。

そして、大事なこと気づいた気がするから書いておこうと思ったのでした。

そしてそして、
夫よ、いつもありがとう。

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