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soundtracks|ZINE読者との対バン(対談)ツアー

homeportの山崎翔さんが対バン(対談)ツアーを企画してくれた。対バン(対談)の相手は、私の執筆したZINEを読んでくださった、4名の読者の方々。とても有難く、嬉しいことだ。湖畔の制作室としては、フライヤーデザインも務めさせて頂いた。こちらも有難い。

このツアーはどんなものなのか?
詳細は、山崎さんと私がフライヤーに書いたので、そちらをご覧頂きたい。

このツアーは、どなたでも参加(聴講)可能なので、希望される方は、下記にご連絡いただければと思う(kohan.seisakushitsu[a]gmail.com ※[a]を@に変更してください)。

まだ書きたいことはあるが、本番に取っておくことにして、ここでは、ツアーに向けた"思い"として、2つの文章を引用して、筆をおきたい。
いずれもミハイル・バフチンの著書からの引用で、大学院の頃に読んでいた本である。「訂正可能性の哲学(東浩紀著)」の中でも言及されていたので、改めてぱらぱらと眺めてみたところ、今回のツアーにつながる記述が見つかった。
このツアーは、大学院時代の対話から、真っ直ぐつながっているのかもしれないと思った。

ドストエフスキーの芸術作品の中心に対話が、しかも手段としてのではなく、自己目的としての対話が位置しなければならないのは、自明の理である。そこでは対話は、事件の入り口ではなく、事件そのものなのだ。[…]存在するということ――それは対話的に接触交流するということなのだ。対話が終わるとき、すべてが終わるのである。だからこそ、対話は本質的に終わりようがないし、終わってはならないのである

バフチン, M (1963). 「ドストエフスキーの詩学」 (望月哲男/鈴木純一訳)  p.528 

修辞術は、しばしば純粋な、言葉に対する言葉だけの勝利にとどまることが多い。この場合、修辞術は形式主義的な言葉の遊戯に陥ってしまう。しかし、繰り返しになるが、言葉を現実から切り離すことは、言葉そのものにも破滅をもたらす――言葉は凋み、意味の深さと可変性、自己の意味を新しい生きたコンテキストの中で拡大し、更新する能力を失う。そして、本質的に、言葉としては死に絶える。なぜなら意義を有する言葉は、自己の外部において、つまりその外部における志向性によって生きているからである。

バフチン, M. (1975). 「小説の言葉」 (伊東一郎訳) p.177

こんな"思い"を胸に、約2か月のツアーを回る。
8/1(木) 20:30、初日の幕が上がる。

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