野田昌宏年譜(2008年7月、2023年4月改訂)
2008年に、大阪府岸和田市「浪切ホール」で「第47回日本SF大会DAICON7」が開催され、この大会の2日目、8月24日(日)の大トリとなるプログラム、星雲賞贈賞式で、野田昌宏さんに星雲賞特別賞が送られました。
これに先駆けて、同日の午後に野田さんの追悼企画「人生はSFだ」が設けられ、2部構成のパネルのうちの前半「SFは絵。だろ」(加藤直之・高千穂遙対談、小浜徹也司会)のため、小浜は参考資料というか記念のコピー冊子をつくりました。冊子には、野田さんの短いエッセイ等も、ご遺族に了解をいただいて再録しました。以下の年譜は冊子の「年譜」部分です。
そうした経緯で、野田さんに加えて加藤さんと高千穂さんの項目も織りまぜており、それには●印を付けています。また、■印で歴史的事実についても記しました。
その後、同じ冊子を、同年10月11日開催の「京都SFフェスティバル2008」合宿企画「野田昌宏さんを偲ぶ部屋」(川合康雄・小浜徹也ほか)で使用するため再度作製しました。京フェス配布版では年譜部分を大幅に改訂しました。
この年譜については、野田さんの研究家でもある高橋良平さんからお褒めにあずかり小浜としても気をよくしたものだったのですが……。
じつは2008年にこの年譜作成にあたり、文書末に記した記事等々を参照したのですが、半年ほどしてからWikipediaに、年譜にまとめた細かな内容が追記されはじめたのです。
もちろん事実の転載だし、なんら問題ではないのですが、でもこれだと、今となってはまるで小浜がWikiを丸写ししたかのようではないですか。そう思われると悔しいので、この前後関係を明記しておく次第です。このこと自体は実に得がたい体験でした。
なおこの年譜ですが、野田さんの愛車であった3代にわたる「シャンブロウ号」の購入時期、東京での最初の「潜水艦の丸窓がついたような下宿」と、その後の用賀のマンションへの引越し時期、また同じマンションの別棟の書庫の購入時期を加えられればよいのですが、調査が及んでいません。
*
・1933年8月18日、福岡に生まれる。本名・野田宏一郎[こういちろう]。
・1938年(4歳)4月、大濠幼稚園入園。
・1946年(12歳)4月、泰星中学校入学。
・1949年(15歳)4月、泰星高等学校入学。
●1951年11月7日、高千穂遙、愛知県に生まれる。
●1952年3月、加藤直之、静岡県に生まれる。
・1952年(18歳)3月、高校卒業するも某旧帝国大学受験に失敗。浪人生活を送る。
・1953年(18歳)自動車免許取得。
・1954年(19歳)地元の古本屋で偶然、カバーのとれたアメリカのSF雑誌を購入。ダイジェスト判の〈アスタウンディング〉誌1948年12月号だった。イラストに感激する 。
・1955年(21歳)4月、学習院大学政経学部政治学科入学。神保町の古本屋に通い、SFペーパーバックを買いあさる。
■1956年(22歳)元々社[げんげんしゃ]の翻訳SFシリーズ刊行。読みあさる。
■1957年(23歳)5月 、日本最初のS F同人誌〈宇宙塵〉創刊。主宰者は柴野拓美。当時のグループ名は「科学創作クラブ」で、のちに誌名と同じ「宇宙塵」に変更された 。
■1957年(24歳)10月4日、スプートニク1号打ち上げ。
■1957年(24歳)12月、ハヤカワファンタジイ(のちのハヤカワ・SF・シリーズ)創刊。1974年まで刊行 。
・1958年(25歳)「宇宙塵」(科学創作クラブ)に参加。最初に出席した月例会は光瀬龍氏宅で開かれたものだった。同じ電車、同じ道のりでやってきたはずなのに誰とも出会わなかった、と野田さんが語った際、主宰の柴野さんがふと漏らした「あァ、きっとどっちかがべつの空間を通ってきたんでしょう」という台詞に衝撃を受ける。例会で星新一が語ったブラッドベリ「万華鏡」のあらすじに感動する。またこののち、早川書房へ入社しないかという話があった。野田さんは断り、そのとき入社したのが森優(筆名・南山宏。なんとこの「宏」の字は野田さんにちなんだものだという。「南山」は住んでいた町名)
・1958年(25歳)創設されたばかりの株式会社フジテレビジョンに入社(フジテレビの創設は57年11月、放送開始は59年3月)。
・1958年(25歳)12月 、学習院大学〈学習院輔仁會[ほじんかい]雑誌〉180号に「B29の小さな話」を発表。野田宏一郎名義。
・1959年(25歳)3月、学習院大学卒業。
・1959年(25歳)4月、〈宇宙塵〉に初めて寄稿。エッセイ「SFつれづれ草」を隔月連載、59年10月号まで全4回。
◾️1959年(26歳)12月、〈SFマガジン〉創刊(60年2月号)。
・1961年(28歳)通いつめていた神保町の古書店で、洋書古本SFが大量に買われていることに気づく。古本屋の店主に「お目にかりたし、電話乞う。当方S F狂の一サラリーマン」と伝言を預けたところ、現れたのは早稲田大学1年生の伊藤典夫だった。 (しかしこのとき伊藤さんはとっくに「宇宙塵」の会員だったはず)
■1962年(28歳)5月27日、第1回日本SF大会MEG-CONが目黒で開催。野田さんは仕事の都合で 参加できず。同大会は「宇宙塵」発足5周年を記念したもの。さらにこの大会で「宇宙塵」に次いで野田さんの活躍の舞台となるファングループ「S Fマガジン同好会」(例会名「一の日会」の名称で有名。機関誌は〈宇宙気流〉)が発足した。
・1962年(28歳)5月、〈宇宙塵〉に「新・S F つれづれ草」を連載。63年6月号まで全9回。
・1962年(28歳)初夏、大先輩・矢野徹氏宅にコレクター仲間の森優、伊藤典夫とともに招かれ一泊、矢野さんが「あげるから持って帰っていいよ」と取り出した古いS Fパルプ雑誌を三人で奪いあう事態となった……ということは野田さんが何度も書いているが、じつはこれこそが野田さんのパルプ収集の引き金になったのではないかと伊藤さんは追悼エッセイで記している。森優さんからも聞いた。
・1962年(29歳)12月発売の〈SFマガジン〉63年2月増刊号「3周年記念増大号 日本作家特集」に、特集解説「SF銀河帝国盛衰史」を執筆。これが商業誌デビュー原稿となる。
・1963年(29歳)5月、SF仲間で二手に分かれ、前後して地下鉄丸ノ内線で移動した際、 先発組が後発組よりあとに目的駅に着いたーー世に言う「メビウス電車事件」発生。眉村卓氏のデビュー長編『燃える傾斜』の出版記念会が開かれた夜のことだったという。
・1963年(29歳)7月発売の〈SFマガジン〉9月号から「SF英雄群像」の連載を開始。生涯を代表する研究業績となる。1965年5月号まで全16回。のち69年2月に単行本化。
■1963年(30歳)9月、創元推理文庫でSF部門の刊行がはじまる。
・1965年(31歳)伊藤典夫らと、毎回1作家の全作品を読破して臨む読書会〈SFセミナー〉の活動を開始(77年および80年からの「SFセミナー」とは別のもの)。
・1965年(31歳)5月発売の〈SFマガジン〉7月号から「SF実験室」を連載開始。1969年9月号まで全47回。のちに一部は『SF考古館』『SFパノラマ館』(74年、75年。ともに北冬書房)に、またほとんどの記事は『「科學小説」神髄』(1995年、東京創元社)に収められた。
・1965年(31歳)フジテレビ系列で担当した番組 「日清ちびっこのどじまん」放映。全国的なヒット番組となる。7月27日から69年9月29日まで。
・1965年(32歳)8月、最初の翻訳書、講談社の児童書書〈世界の科学名作〉よりエドモンド・ハミルトン『百万年後の世界』を翻訳刊行(完訳版[ハヤカワSFシリーズ版]は『時果つるところ』。文庫化されなかったため、このことを知らない若い読者は、ハヤカワSF文庫のデイヴィッド・グリンネルの同題作品を手にして混乱した)。「おれが傑作にしてやったぞ」とうそぶいたという。野田宏一郎名義。本名での書籍はこれ1冊のみ。
■1965年(32歳)10月、武部本一郎[たけべもといちろう]イラストのエドガー・ライス・バローズ 『火星のプリンセス 』(創元推理文庫SF)刊行。野田さんは世界中のバローズ・ファンに武部イラストを送って自慢した。
・1965年(32歳)10月、岐阜で開催された「ミューコン」(中部地方のファングループ 「ミュータンツ・クラブ」の会合) で集会し「日本S Fファングループ連合会議」が発足(現在までつづいている)。野田さんは初代議長(野田さんが遅れて参加するのを知って、到着前にみんなで決めた)。1年で柴野さんに議長職をゆずる。
・1966年(33歳)8月20〜21日、第5回日本SF大会MEICON(名古屋で開催)にて第2回日本SFファンダム賞を受賞(野田宏一郎名義)。SFファンダム賞は65年から69年まで連合会議が発行した、ファン個人を懸賞して贈られる賞(82〜2007年の柴野拓美賞の原型)で「野田さんが言いだしっぺだった。賞牌代わりのバッジも野田さんがデザインして、何個か作って来てくれました」と柴野さん。69年までつづき、70年に星雲賞にその役割をゆずった。
・1966年(32歳)2月、野田昌宏名義での初の翻訳書、ハミルトンの《キャプテン・フューチャー》シリーズの1作『太陽系七つの秘宝』(ハヤカワ・SF・シリーズ)を刊行。以降、年に何冊もの翻訳書を刊行する人気翻訳家となる。
・1967年(34歳)12月、野田さん自身がつくったインディーズ・プレス「シャンブロウ・プレス」より、石原藤夫編『「S-Fマガジン」インデックス(1ー100)』を発行。
・1968年(34歳)7月、シャンブロウ・プレスより石原藤夫編 『「S-Fマガジン」インデックス(1一100)』『「S-Fマガジン」インデックス(1ー100)補遺』を発行。
■1968年(34歳)7月〜9月、柴野拓美氏が夫妻でアメリカ・ファンダムに招かれ渡米、柴野さんにとって初のワールドコン (第26回大会ベイコン)参加。野田さんは賛助団体「柴野拓美を日本から追い出す会」を設立し渡米資金を集めた。
・1968年(35歳)〈SFマガジン〉9月臨時増刊号「大宇宙を馳せる!」に、初の創作短編「レモン月夜の宇宙船」を発表。のちのち野田さんの代表作となる。作中のコレクターのモデルは今日泊亜蘭氏。
・1968年(35歳)8月31日〜9月1日、第7回日本SF大会TOKON4(東京で開催)の伝説となっている企画「戦略的SF論」が行なわれたのがこの大会。ものものしいタイトルだが、内実としては、まだまだ数少なかった女性参加者を全員壇上にあげ、次々とインタビューするという“画期的”なもの。
・1968年(35歳)12月、外遊。ニューヨークを20日間。帰国直後に、創作での第2作「ラプラスの鬼」を発表。
・1969年(35歳)1月末、「SFイラストライブラリー」の宣伝を〈SFマガジン〉3月号に載せる。有料会員制組織で、海外のSF雑誌を飾ったイラストをスライドにし配布する企画。それなりに高額の配布だったので「当時の高校生にはなかなか手が出なかった」と高千穂さんは語った。
・1969年(35歳)2月、SF研究活動の代表作となる『SF英雄群像』(早川書房)刊行。『SF入門』(福島正実編、早川書房)と同じ新書サイズだった。
・1969年(35歳)3月、シャンブロウ・プレスより石原藤夫編『S-F図書解説総目録(昭和20年9月一43年8月)』(第1刷)を発行。
・1969年(35歳)6月、立風書房 立風ネオSFシリーズ)よりR・A・ハインライン『銀河市民』を翻訳刊行 。野田さんの唯一のハインラインの翻訳書となる。このときの編集者が、血液型分類でおなじみの能見正比古[のみまさひこ]氏だった(なお能見氏は「宇宙塵」同人)。のち72年にハヤカワ文庫S Fに収められる。
■1969年(35歳)7月21日、アポロ11号の 月面着陸。
・1969年(36歳)8月発売の〈S Fマガジン〉10月号から「SF美術館」連載開始。70年12月号まで全14回。
●1970年4月、加藤直之、千代田デザイナー学院入学。
●1970年4月、高千穂遙、法政大学社会学部入学。
・1970年(36歳)6月、シャンブロウ・プレスより石原藤夫編『S-F図書解説総目録(昭和20年9月ー43年8月)』を発行。この年に石原氏自身によって「SF資料研究会」が設立され、以後はそちらが発行元となる。
■1970年(36歳)8月22、23日開催の第9回日本S F大会TOKON5より、大会参加者の投票で選ばれる星雲賞がスタートし、現在に至る。発案者は伊藤典夫氏。
■1970年(36歳)8月、ハヤカワS F文庫創刊。このとき編集長だった森優氏は「野田さんが文庫創刊に当たっての最大のブレーンだった」と語る(ほかに鏡明、荒俣宏も、と伺った)通巻番号1番が野田訳のハミルトン『さすらいのスターウルフ』。
● 1970年、松崎健一氏を会長に、SFイラストを主題とするファングループ「SFセントラルアート」が発足。
●1971年、加藤直之、「SFセントラルアート」に 入会。
●1972年3月、加藤直之、千代田デザイナー学院卒業。
●1972年、「SFセントラルアート」の仲間で「有限会社クリスタルアートスタジオ」を設立。アニメーションの企画・脚本を担当。高千穂さんは法政大学社会学部在学中で、初代代表。74年に「株式会社スタジオぬえ」となる。
・1972年(38歳)7月、ニール・R・ジョ ーンズ〈ジェイムスン教授〉シリーズ(ハヤカワ文庫SF)刊行開始(1977年まで)
・1973年(39歳)フジテレビ系列の担当番組「ひらけ!ポンキッキ」放送。4月から93年9月まで。
・1973年(40歳)9月発売の〈SFマガジン〉10月臨時増刊号に小説風エッセイ「キャプテンたずねて三光年」を掲載。作中に野田さん自身が登場し、自ら差し出した名刺に「宇宙軍大元帥」の肩書きがあった。正確には「貴族、大富豪、最高知識階級、所属/太陽系安全保障最高会議議長/太陽系惑星総軍最高司令官/太陽系戦略宇宙軍最高総司令官/宇宙軍大元帥 野田昌宏」。直後からファンに「大元帥」と呼ばれるようになる。
・1973年(40歳)9月30日、 野田さん自身の主催による「第1回日本SFショー」が東京で開催される。サブタイトルが「10月1日では遅すぎる」。事務局を高千穂遙がつとめる。
・1973年(40歳)暮。第1期〈奇想天外〉にエッセイ「いとしい紙屑たち」を連載。74年1月号(創刊号)から10月号(終刊号)まで全9 回。野田さんを代表する古書エッセイの連載。のちに一部は『SFパノラマ館』(75年、北冬書房)と創元SF文庫版『レモン月夜の宇宙船』(2008年)に収録された。
・1974年(40歳)第1期〈奇想天外〉掲載の「いとしい紙屑たち」第5回のなかで、野田さんの生涯最大の名文句となる「SFってなア、結局のところ絵だねェ」の台詞が登場。ただし発言者は友人の音楽家である「Q」という人物とされている。
・1974年(41歳)10月、SF評論集『SF考古館』(北冬書房)を刊行。
・1974年(41歳)11月、東京で第2回日本SFショーを主催。
●1974年、加藤直之(22歳)ハヤカワSFコンテスト・アート部門に1位入賞。野田さんは選考委員の一人だった。発表は〈SFマガジン〉11月号。ただし受賞以前、同年2月号から「クリスタルアートスタジオ」としての仕事を〈SFマガジン〉誌上に発表していた。
●1974年9月、「有限会社クリスタルアートスタジオ」を発展解消し「株式会社スタジオぬえ」へ移行。
●1975年3月、高千穂遙、法政大学卒業。
・1975年(41歳)3月、A・バートラム・チャンドラー〈銀河辺境〉シリーズ(ハヤカワ文庫 S F ) 刊 行開始。イラストは加藤直之(スタジオぬえ)(〜1985年)。
・1975年(42歳)11月、SF評論集『SFパノラマ館』(北冬書房)を刊行。
・1975年(42歳)末、フジテレビ系列の担当番組 「ひらけ ! ポンキッキ」内のコーナーで流れた曲「およげ!たいやきくん」がセールスされ日本レコード史に残る大ヒットに。ただしこの曲についたイラストはぬえの担当ではなかった。
・1976年(43歳)8月14〜15日、第15回日本SF大会TOKON6(東京で開催)実行委員長。主催団体は 「SFセントラルアート」。事務局長はまたしても高千穂遙。野田さんが翻訳したチャンドラー「ぬ れ た洞窟壁画の謎」が第7回星雲賞海外短編部門賞を受賞。
・1976年(43歳)8月、株式会社フジテレビジョンを退社。放送制作プロダクション、日本テレワーク株式会社の設立に参加。
・1976年(43歳)12月、第1作品集『レモン月夜の宇宙船』(ハヤカワ文庫JA)を刊行。カバー・加藤直之、解説・高千穂遙。
●1977年1月、 高千穂遙(26歳)、『連帯惑星ピザンの危機』(ソノラマ文庫)で小説家デビュー 。
・1977年(43歳)2月、〈SFマガジン〉で「私をSFに狂わせた画描[えか]きたち」連載開始。4月号から79年10月号まで全31回。
● 1977年3月、スタジオぬえの仕事としてイラスト・挿絵を担当した、ハヤカワ文庫SF版の ハインライン『宇宙の戦士』のパワードスーツのデザインが 一世を風靡する。これがなければ「機動戦士ガンダム」も存在しなかった。ぬえを代 表する、世界規模 で後世に影響を与えた仕事となる 。
・1977年(43歳)6月、野田さんを囲むSFファングループ「宇宙軍」創設 。
●1977年、加藤直之、〈SFマガジン〉7月号よ りカバーイラストを担当。83年6月号まで毎月。
■1978年(44歳)4月、ハミルトン《スターウルフ》が日本で特撮ドラマ化。4月2日から同年9月24日まで放映。
・1978年(44歳)4月、最初の長編小説『宇宙からのメッセージ』(角川文庫)を発表。深作二監督の同名大作映画のノベライズ企画だが、内容は野田さん独自のものとなっていた。のちの《銀河乞食軍団》(ハヤカワ文庫JA)の原型的な要素も見られる。
■ 1978年(44歳)6月、映画「スター・ウォーズ」日本公開。野田さんはこの前年に本国で公開された直後から熱狂し、ジョージ・ルーカス自身による(本当はアラン・ディーン・フォスターがゴーストライター)ノベライズ(角川文庫)の邦訳を手がけた。
◾️1978年の日本SF大会HINCONにバートラム・チャンドラー来日。
●1978年8月、スタジオぬえのムック『SFイラストの世界 スタジオぬえのすべて』(朝日ソノラマ、ファンタスティックコレクション8)刊行。実質的に、最初の廉価版画集であった。
・1978年(45歳)11月、ハミルトン〈キャプテン・フューチャー〉がNHKでTVアニメ化。11 月 7日から79年12月18日まで毎週放映。挿入曲「おいらは寂しいスペースマン」は原作中で野田さんが訳した歌詞を「山本圭一」名義で提供したもの。なお三番の歌詞は野田さんがオリジナルで起こした。
●1978年12月23、24日、第1回クリコン祭開催(「クリコン」は「クリスタル・コンベンション」の略)。東京・本郷の旅館「朝鳴館」にて。
●1979年、加藤直之、第18回日本SF大会MEICON3(名古屋で開催)にて、第10回星雲賞アート部門を受賞 。
・1979年(46歳)9月発売の〈SFマガジン〉10月臨時増刊号に『銀河乞食軍団 第1部』を一挙掲載。その後、野田さんを代表する創作長編シリーズとなる。82年にハヤカワ文庫JAに収録され、95年まで書き継がれ、正伝17巻・外伝4巻という長大な作品となった。
・1979年(46歳)9月発売の〈SFマガジン〉11月号より「野田昌宏のセンス・オブ・ワンダーランド」連載開始。85年8月号まで全66回。
●1980年8月9、10日、高千穂遙、第19回日本SF大会TOKON7(東京で開催)にて、「ダーティペアの大冒険」で第11回星雲賞日本短部門を受賞。
・1980年(47歳)11月、『NASA これがアメリカ航空宇宙局だ』(CBSソニー出版)を刊行。最初の宇宙開発関係の著作である。
●1981年、加藤直之、最初の画集『加藤直之画集』(朝日ソノラマ)刊行。
・1983年(49歳)6月発売の〈SFマガジン〉7月臨時増刊号「キャプテン・フューチャー・ハンドブック」刊行。野田さんオリジナルのキャプテン・フューチャー作品『風前の灯! 冥王星ドーム都市』が一挙掲載(書籍化されるのは逝去の直後、2008年6月のこと。創元SF文庫)。
・1983年(50歳)10月発売の〈月刊スターログ〉(ツルモトルーム発行)11月号で 「野田昌宏のSF世界大解剖」が特集される。このときの編集者が、のちに『「科學小説」神髄』を編纂する高橋良平氏。
・1984年(50歳)日本テレワーク株式会社社長に就任。
・1985年(51歳)11月2日、「野田昌宏出版百冊突破記念パーティ」が原宿で開催(「宇宙軍」主 催) 。記念の百冊リストが製作配布された 。
・1986年(53歳)8月23〜24日、第25回日本S F大会DAICON5 (大阪府吹田市で開催) にて、「レモンパイお屋敷横町ゼロ番地」(〈SFマガジン〉掲載の〈銀河乞食軍団〉外伝作品)で第17回星雲賞日本短編部門を受賞。
●1986年8月24日、高千穂遙、同じくDAICON5にて、「ダーティペアの大逆転』(早川書房)で第17回星雲賞日本長編部門を受賞。
・1986年(53歳)12月発売の〈S F マガジン〉2月号より連載エッセイ「センス・オヴ・ワンダーランド2」開始。1989年4月号まで。
● 1988年、加藤直之、〈S Fアドベンチャー)(徳間書店)1月号より表紙イラストを担当。89年12月号まで毎号。
・1988年(55歳)銀河乞食軍団完結祈願ワインが製造される(「宇宙軍」製作 ) 。
・1988年(55歳)10月、『スペース・オペラの書き方 宇宙SF冒険大活劇への試み』(早川書房〉を刊行 。希有の創作指南書として賞賛され、末永く語り継がれることに 。
・1989年(55歳)4月発売の〈SFマガジン〉6月号より「SFインターフェース講座 野田昌宏のもっとS Fしてみよう!」連載開始。96年12月号まで全90回。
・1989年(56歳)8月19〜20日、第28回日本SF大会DAINACON★EX(名古屋で開催)にて、「スペース・オペラの書き方』(早川書房)で第20回星雲賞ノンフィクション部門賞を受賞。
・1989年(56歳)秋、仕事にかこつけて、マンハッタンのアイザック・アシモフ宅を訪問。持参した〈アスタウンディング〉誌にサインをもらう。
・1989年(56歳)10月6日、ワシントンDCで開かれたハインラインの追悼記念式典に矢野徹氏とともに出席。
・1993年(60歳)12月4日〜5日、「SFクリスマス93 野田さんの還暦をこっそり祝う会」開催(「宇宙軍」主催)。
・1994年(61歳)7月1〜3日、第33回日本SF大会RYUCON(沖縄で開催)にて、『やさしい宇宙開発入門 予備知識不要!スプー トニクから宇宙ステーション構想まで』(PHP研究所)で第25回星雲賞ノンフィクション部門賞を受賞。
・1995年(62歳)8月19、20日、第34回日本S F大会はまなこん(浜松市で開催)にて、『愛しのワンダーランド スペース・オペラの読み方』(早川書房)で星雲賞ノンフィクション部 門賞 を受賞。
・1995年(62歳)暮、『「科學小説」神髄』(高橋良平編纂、東京創元社)で第16回日本SF大賞特別賞を受賞。
・1996年(63歳)12月、訳書、デイヴィッド・ファインタック〈銀河の荒鷲シーフォート〉シリーズ(ハヤカワ文庫SF)刊行開始(〜2003年)。
・1997年(64歳)8月発売の〈SFマガジン〉10月号より「新・SFインターフェース講座 野田昌宏のこんな宇宙もあった!」連載開始。2000年12月号まで全36回。
・1998年(64歳)7月、NHK教育テレビ「NHK人間大学 宇宙を空想してきた人々」に出演し講師をつとめる。9月まで放送。NHK出版よりテキストも刊行。
・1998年(65歳)8月29〜30日、第37回日本S F大会CAPRICON1(名古屋で開催)にて、アレン・スティール「キャプテン・フューチャーの死」の翻訳で第29回星雲賞海外短編部門賞を受賞。
・1999年(65歳)7月3〜4日、第38回日本 S F大会やねこん(長野県で開催)にて、『NHK人間大学 宇宙を空想してきた人々』で第30回星雲賞ノンフィクション部門を受賞。同作はさらに第19回日本SF大賞特別賞を受賞。
・1999年(65歳)同じくやねこんにて第9回暗黒星雲賞ゲスト部門を受賞 。
・2000年(66歳)日本へのワールドコンの招致活動はじまる。野田さんは下北沢での第1回会合から出席。
・2003年(70歳)日本テレワーク株式会社代表取締役を退任。
・2003年(70歳)12月20〜21日、「S Fクリスマス2003 まるごと野田昌宏! 宇宙軍大元帥古稀スペシャル」にて古稀記念パーティ開催(「宇宙軍」主催)。記念ファンジンが配布された。政治家である従兄弟の麻生太郎氏が来場しスピーチ。「宏[こう]ちゃんは最年長の従兄弟で、 われわれ従 兄 弟 会 の会長」という。麻生氏はこの前月に総務大臣に就任していた 。
・2004年(71歳)8月、ハミルトン〈キャプテン・フューチャー全集〉創元SF文庫、全11巻+別巻) 刊行開始(〜2008年)。
・2004年暮に開催された矢野徹さんの告別式では、早川浩、浅倉久志らとともに弔辞を述べ、「矢野さん、お達者で」と締めくくる。
■2007年(74歳)8月30日〜9月3日、第65回世界SF大会(第46回日本SF大会と併催)Nippon2007、横浜で開催。日本で、そしてアジア圏でも初のワールドコンであった。ファン・ゲスト・オブ・オナーは、野田さんの生涯の盟友・柴野さん。野田さん自身は2000年に始まった日本への誘致運動の当初から多大な力添えをしてきたが、大会への出席はかなわなかった。またプロ・ゲスト・オブ・オナーの小松左京氏(こちらは出席)はながらく日本テレワークの顧問だった。麻生太郎が開会式に祝電を寄せた。
・2008年(74歳)6月6日、肺炎のため死去。通夜は8日、葬儀は9日、文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂でおこなわれた。
・2008年6月末日、野田さんオリジナルのキャプテ ン・フューチャー長編『風前の灯 ! 冥王星ド一ム都市』(創元SF文庫)が初めて書籍化。《全集》の別巻として刊行 。
・2008年8月23〜24日、第47回日本SF大会 DAICON7(大阪府岸和田市で開催) にて、第39回星雲賞特別賞を受賞。本名の野田宏一郎名義で贈られた。弟さんの野田玲二郎氏が登壇し、代理受賞者としてスピーチした。
●2008年8月23〜24日、加藤直之、同じくDAICON7にて第39回星雲賞アート部門を受賞。
・2008年9月23日、「野田昌宏さんを偲ぶ会」が日本青年館で開催(「宇宙軍」主催)。「星の涯[はて]の会」と名づけられ、10年まで3回開催された。
・2009年6月『銀河乞食軍団 合本版1 発動! タンポポ村救出作戦』(早川書房)刊行。1〜6を合本化。A4サイズの大冊。
・2009年11月『銀河乞食軍団 合本版2 消滅!? 隠元岩礁実験空間』(早川書房)刊行。7〜11を合本化。これにて第1部完結。
・2021年6月 未完成に終わったSF長編『山猫サリーの歌』が、仮に預けていた先の扶桑社より、電子書籍オリジナル作品として刊行。野田さんが生前に「老人SF」と小浜には語っていたもの。作中で「ちびっこのどじまん」の運営のようすがヴィヴィッドに綴られている。
参考文献
竹川公訓(高千穂遙)「野田さん小百科」(『レモン月夜の宇宙船』)、『塵も積もれば』(出版芸術社」、ウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/wiki/)、宇宙軍公式サイト「SPACE FORCE GENERAL STAFF OFFICE」(http://homepage 2 .nifty.com/SPACE_FORCE/)