あなたも誰かの優しいあの子~「なつぞら」総評~

日本橋の料理人の家庭に産まれるも、戦争で親を亡くし兄妹と生き別れた戦災孤児の少女・奥原なつが、北海道で酪農を生業とするそこそこ裕福な柴田家に引き取られ、やがて「料理」とも「酪農」とも違う「アニメーター」という夢を胸に東京に出て、女性のアニメーターとして、作画監督としてキャリアを積んでいく…
という、現実のあれやこれやをモチーフにしつつも「現実とは別の世界線」を進む物語は、朝ドラ100作目のお祭りとしてたくさんの朝ドラヒロインが出演したり、ヒロインを取り巻く男の子達の顔の良さが半端なかったり、ていうか広瀬すず「海街diary」や「学校のカイダン」のキュートな女の子がいつのまにこんなに凄みのある美女に…顔がいい…みたいな感慨が生まれたり、まあそんな話でした。

個人的には、十勝編やアニメーター編の序盤は「色々豪華だし技巧は巧いけど私が別に感想を言わなくてもいいドラマ」という感じだったのですが、それが作品として私に向けて大爆発したのが「なつとイッキュウが一旦の破局の後に結ばれる」エピソードでした。言うなればオープニング映像の「紙に描かれた物語が自分に向けて飛び出してくる」ようなインパクトをドラマ放映時に味わうことになり、心底「テレビドラマって凄いなあ」と思わされました。それまで感情移入の対象ではなかった物語に一気に没入させられて、最終週は「もう何が起きても泣けて仕方ない」みたいになるとは思ってなかったよ…

奥原なつは孤独な人です。
その孤独は別に戦災孤児として、貰われ子として培われたものではなく、人は元々孤独なものだからです。自分の気持ちなどというものは、究極のところで他人と分かち合えるものではありません。なつが「柴田家の人間を家族として愛している」ことと「分かち合えない孤独がある」ということは当然に両立していますし、彼女は孤児としての出自をオープンにしているけれど「キックジャガー」を「孤児院出身の君なら描ける」と言われると物凄く微妙なリアクションを返します。
そういう、自分が孤独な人間であることを糊塗しない、愛想笑いの似合わない女・奥原なつ。私はそういうヒロイン像を好ましく思いながら見ていましたし、奥原なつがそういう人間として生きられたこと自体に、この作品が令和最初の朝ドラとなった意義があると思っています。

彼女は北海道に来たとき、健気な働き者の少女として振る舞います。笑顔を振りまき、事あるごとに礼儀正しく元気よく返事をし、学校に行かずに働けと言われれば文句ひとつ言わずに牛舎に行き仕事をする。役に立たない自分には居場所がないのだと言わんばかりに。その振る舞いに義母・富士子は「子供らしくない」と否定的な感想を漏らします。その彼女が、戦争で両親を亡くし兄妹とも生き別れた悲しみと怒りを爆発させ「どうして私には家族がいないんだ!畜生!」と川辺で叫び、その姿をもって柴田家に家族として迎え入れられるのが「子役編」のクライマックスでした。

愛想笑いや過剰な礼儀正しさは、他人に「よく思われる」ためのものです。そのすべてを否定するわけではありませんが、そういう振る舞いこそが「正しい」とする考え方には疑問が残ります。私たちは誰かによく思われるために生きているのではない。どんな人間でも生まれながらにして、個人として尊重されるべきなのです。

印象的かつ、物語の根幹ともいうべきエピソードがあります。

なつのアニメーターとしての先輩である下山は、かつて警察官でした。彼は人身売買のような扱いを受ける戦災孤児を、日本国憲法第18条を持ち出して救います。
「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」
下山は「奇跡なんて、人が当たり前のことをするための勇気のようなもの」となつに告げます。
(余談ですが、豪華キャストを揃えた「なつぞら」において、その根幹となる台詞をさりげなく、本職はお笑い芸人である川島明に言わせるところもすごくいいなと思うんですよ…)

人が個として尊重されること。
自分の意志のもとに生きること。
それを「誰かに愛されるための振る舞い」を川辺で捨て去った、孤独も可愛げのなさも隠さない、しかし女傑として他人を率いていくタイプでもない主人公が体現していくことにこそ、このドラマのオリジナリティはあったと思います。

主人公・なつの「孤独」をそのまま受け止め愛する男として描かれたのが、坂場一久(イッキュウさん)で、その描写も素晴らしいものでした。
東大で哲学を学んだイッキュウは「絵の描けないクリエイター」として物語の中に登場します。アニメーションを志しながら絵を描けない、だから言葉で、理屈で物語を誰かに表現してもらうしかない。その偏屈さと、ひとりでは完結できないくせに強すぎる拘りは、時間や予算を食い潰すものであり、ときに他のクリエイターの精神をすり潰すものです。そんな彼がなつに恋をし、自分の手がけた映画の失敗を引き受ける形で彼女との恋も終わらせようとし、そのことに毅然と反論されたときにどうしたか。
彼は一晩「なつの気持ちなって」考え、なつの思いを、孤独をきちんと見つめなおすのです。

孤児としてのなつがどんなに孤独であったか、彼女の根幹にあるものが何かを彼は一生懸命考え、なつがなつとして生きるために寄り添い、考える努力を惜しまないことを決意します。夫婦愛というのは恋愛や性愛を含むもので、性愛とはある意味相手を片目を瞑って許すことで成立しているとも言えます。けれど、イッキュウは「なつの生きる世界をまるごと尊重する」という方向に愛情の舵を切るのです。この「尊重」という愛の描き方は、非常に現代的価値観に基づいていて、だからこそなかなかフィクションの中で描かれてこなかったもののように思います。

BSで再放送中のレジェンド朝ドラ「おしん」(1983年放送)や、北海道を舞台としたレジェンドドラマ「北の国から」(1981年放送)は、その当時の「現代」の物質主義的・個人主義的な価値観へのカウンターがあるように感じます。「日本人は確かに豊かになった。けれどその過程で置き忘れて来てしまった大切な、お金で買えないものがあるのではないか」というやつです。その当時はまだ日本は景気が良かったこともあるのでしょう。
けれど、そこから30年以上を経た現在は、景気は悪く「権利を主張するには義務を果たすべき」という価値観を一般人も口にするような時代になっています。「名もなく貧しく美しく」生きることは搾取と紙一重なのに、搾取されまいと声をあげることが「我儘」という批判に晒されることすらある。

そういう時代だからこそ「なつぞら」が、後ろ盾も何もかも失った孤児であるなつが「元の名前」も「夢」も「新しく得た育ての家族」も理不尽に奪われることなく、愛想笑いを振りまかずとも「そのままの自分」として愛され、「ありがとう」には「なんもだ」「家族なんだからいちいちそんなことを言うな」と返され、配偶者には孤独やバックグラウンドを含めて尊重され、自分を犠牲にして人に尽くさなくても「お前は優しい子だ」と家族に言ってもらえる、そういう物語であった意味があると私は思います。
奥原なつは、戦後民主主義の大いなるタテマエである「個人の尊厳」「男女平等」「職業選択の自由」のもとに生きた人間として描かれました。朝ドラ100作目がそういう物語だったことの意味を、きちんと噛み締めたい。

しかしながら「なつぞら」は、家父長制や旧来の価値観も別段「否定すべきもの」として描いているわけではありません。そのバランス感覚は最終盤、なつ達が里帰り中に起きた停電事件で発揮されます。

停電してしまうと、電動の搾乳施設は使えない。古い時代の開拓者である泰樹と、技術や設備を勉強し導入することに余念のない照男は共に牛を救うために奮闘します。このエピソードで地味に活躍するのが「アイスクリーム屋の開店準備」です。牛自体は昔ながらの手絞りの搾乳で救われますが、絞った牛乳は開店準備中のアイスクリーム屋を潰して作った簡易冷蔵装置のおかげで無駄にせずにすみます。
物語の中で泰樹は「大いなる父性」の最後の砦ですが、もう時代はそれを必要としないところまできている。その「大いなる父性」の最後の活躍の場として「停電の中で牛を救うための奮闘」を用意しつつ、機械化・現代化した酪農を目指す照男の理想と「牛を救う」という目的のために共存する展開は、すごく現代的な理想主義に基づいていて熱かった。また、祖父と孫息子の活躍の傍ら、婿であり農協職員である剛男は「他の酪農家のため」に農協の事務所に向かい、そちらでも奮闘するというのも良かったです。家父長制の祖父、コミュニストの父、そして資本主義の息子という構成なんですよね、この家族。

あらゆる「理想主義」を「ありえないことを本当のように描く」アニメーションの世界を通じて、ありえる世界として物語の中に落とし込んでいく。「なつぞら」の挑戦は全方位的にそういうものだったと思います。
では現実は…?というと、そんなに優しくはないかもしれない。けれど、他人の苦しみに対してほんの少し「あの子は私だったかもしれない」と想像力を働かせてみることや、落ち込んでいる誰かの話を聞き、傍にいることはできるかもしれない。私ではないあなたを尊重して生きていくことは、そこまで難しいことではないはずです。

「なつぞら」は、そういう「優しさ」の連鎖のひとつになる可能性を、しみじみと考えさせられる良作でした。
キャストスタッフの皆さま、どうもありがとうございました。


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